0464話:2018年06月12日

◇動物と人間の関わり

昨日、ハラールという話をして、色々これから、たまたまそういう専門の、日本で一番の、アフリカのイスラム圏の大使を2回された方と、全て日本の認証制度をやっておられる方がいらっしゃるので、来週お会いするんですけども。
やっぱりこれも、イスラム圏の場合もどうしても、砂漠とか不毛の地のところも多かったんでしょうけども。
動物と人間の関係というのは、やっぱり非常に鬼気迫るものもあったんでしょうね、昔は。そういう中で、紀元700年頃くらいから、イスラム教が起こるわけですけども。ちょうど密教と同じくらいの起源ですよね。
だんだん、ハラールの、神の、マホメットに降りて伝える、その中にも色々書かれているんですけども。旧約聖書の中にも燔祭というんですかね、生贄のような形で動物を神に捧げるというようなことも。日本だと、沖縄の方は逆に豚の肉を神様にあげたりすることもあるんですけども。世界によって色々違いがあるからはっきり分けなきゃいけないということもあろうかと思うんですけども。
基本的に日本では肉食禁止令というものを天皇が二回も出しているんですね。ですから基本的には、その伝でいくと、なかなかお肉を食べられないような法律というんですかね、天皇の勅命があるんですけども。ですからビーガンですとか、本格的な動物性のタンパクを摂らないような人々もおられて、現代では、だいぶ社会変化が起こっているんですけども。
やはり、そういう動物が大切な食料というような中では、やはり、それでも動物とどういうふうに人間が関わらなきゃいけないか、ということの一つの道というんですか、関わりと言ったらなんですけど。

◇動物への鎮魂

主に家畜化したり牧畜にして、あるいは移動性のそういうこともありますけども。モンゴルとかの方でもそうですけども。
それが、どうしても関係というか、動物というものを一つの霊的存在というふうなものとして見ると、やっぱり種の神秘的な力が出たり、あるいはそれが災いに転じたりするというようなことをやっぱり考えたと思うんですね。それでイスラム教のお坊さんたちが、特に屠殺した時には、物質的には、今風に言うと、ものすごい体の中のアドレナリンだけじゃないんですけども、色々な興奮のホルモンが一気に出て、それが肉の中に入ったりするということがあったりすると思うんですよね。だから、その屠殺する前に一種の、そういう祈りを捧げたりして、その回避をやるわけですけども。
白川では、そういう祈りも、そうですが、全てに鎮魂しますし、そしてその後、最後は御霊というものを天に、あるいは「元つ御座に昇りましませ」というよう作法をするんですけども。ですから当然、動物に対しての、そういう鎮魂というものもあるわけですね。
その辺りが、精緻にというか、メッシュを細かくして、動物との付き合い方の、鎮魂も含めた、ハラールもそうなんですが、そういう、並べて、出そうというかですね。

◇地獄の五階層

それにはやっぱり、動物と人間の関係と、日本でなぜこういうものを、もちろんロゴストロンもできたかということもそうですけども、その全容をきれいに、動物との対応の仕方も含めて、自然も、仏教でも地獄、餓鬼、畜生、修羅、天人というような地獄の五階層もあるわけですけども。
そういう畜生というふうな言葉を使うというようなことがあるわけですね。それは動物ということの、成仏していない姿を言うわけです。人間が食べられない飲めないで亡くなった者はもっと低いわけですね、餓鬼というふうに言いますけども。餓鬼の上にあるんですけど、それは、自然の法則の通り、ある面では生きているわけですね、一方では。そういう世界、生きているということは、逆に法則に則って生きているということですよね。
ずっと食べられないという、まだいっぱい食べたけど、いっぱい飲んだけど満足できないという存在よりも上位にあると言ったらおかしいんですけどね。動物の霊というものの方が、働きの方が高くなっているんですけども。
そういうことがありますけども、人間がまた、そういう法というか、今度は逸脱するのを修羅というふうに言うわけですね。そういうふうに地獄の階層もあるんですけども。
あるいは今度は、自然の寿命というかですね、そういうものを、乗り越えようというふうなものを天人というふうに言いますけどね。
そういうふうに地獄も五階層になっているんですけども、仏教的には。仏教も含めて、そういう、でも仏教になると、本格的になると、全ての生き物に対してジャイナ教と同じように、蚊もみんな払いのけて、草のようなもので払い除けて殺さないなんて、よく人に、日本では虫も殺さぬような顔をして、とか言い方もありますけどね。

◇お祓いをする人の心の配り方

動物のことを考えすぎても人間の尊厳性が失われるし、動物のことを考えなければ動物の尊厳は、また心の配り方が難しいし、どういう感情で持ってということは、特に、そういう、お祓いをする人、坊さんたち、イスラム系のそういう坊さんたちにとっても、難しいと思うんですけどね。少なくとも我々が、そういう、これからは、構文を持たなければならないというか、ちょっとその辺が、いつも口伝のようにぼやかしていたところもあるんですけどもね。構文でも、その辺の動物の構文を色々書いていますけれども、そういう屠殺の時のとかは、書いてありますか?

●Iさん
先生にお見せしようというのが今ひとつあるので、後で確認させていただきます。
【七沢代表】

◇人は人、動物は動物、だけど仲良きかな

ちょうどね、それも含めてよかったです。それはハラールの時に、コーランを流すのも良いんですけども、そういうことができるかどうか、そのことによって坊さんたちがどのように感じるかということもこれから必要になってくるんで。
もともと日本でも動物との人間の際どい、倒さなくても、「畜仆し蟲物せる罪(けものたおしまじものせるつみ)」というか、蟲物(まじもの)倒して、殺しているか、殺していないかは別にして、支配下に置くということを倒すということになるということもありますけども。
要するに動物と人間の一種のキメラとか、あるいはギリシャ神話の中にあるような、そういう一種のところが、人間がそういうものを、ごちゃ混ぜにするというか、そのことがやっぱり大きな一番の問題になるわけですね。
それは人間と動物の物語というか、なかなか良い物語もあるわけじゃないですか。織って鶴の恩返しとかね、その辺は夕鶴なんて素晴らしい作品もありますけどね。一つの物語としては良いんですけども、今回諏訪でも話が出るんですけども。
そのあたりを、まじもの、混ぜないというか、人は人、動物は動物、だけど仲良きかな、っていうかね。そういうことも含めてお話しますので、そのバックヤードとしては、しっかりとその辺を抑えていただきたいな、ということもあります。
それには、日本人が、良い物語もあるけども、動物と人間との関係の美しい物語も良いんですし、そういう狐が人になったり、蛇が人になったりするということもあるんですけども。

◇しっかりと鎮魂して成仏してもらう

そのことが、人間の今、我々がそういう境を失ってしまうと、今の一種のペットの世界もそういうところがあるのかもしれませんし、だいぶ考えなきゃいけないところがあると思うんで、それも視野に入れて、しかも人間が、いわゆる動物的な想い、そういうものを霊と
呼んだりする場合もありますけども、そういうものに心を奪われないというか、しっかりとした自己意識確立のための鎮魂や、そういう供養はしながら、生きなきゃいけないという明確な線引きというんですかね、必要になってきているんではないのかな、ということを、昨日の話をみなさんにお出ししたんで、ちょっとそのことをしっかりと踏まえて、進めていこうというふうに考えております。
その体系を、単なるそういうものを悪霊のように落とし込まないで、しっかりと鎮魂して成仏してもらうというかですね、そういう成果を明確にしたいと思っておりますので、その辺はよろしくお願いしたいと思います。
ありがとうございます。