0469話:2018年06月16日

◇脳が全てを制御する、唯脳論という考え方

脳で解決させることは、甲野善紀君と対談されていて、本もお出しになっていた養老孟司さんという先生がいらっしゃいましたね。その頃から、唯脳論を説かれていて、言語、意識、心また文化、伝統、社会制度など、あらゆる人の営みは脳という器官の構造に対応して、機能しているとする、そういう捉え方をして、脳が、唯一というか、脳の働きが、世界を創っているのではないかという脳一元論ですよね、そういうことを言っていた時期もあるんですが。
我々が、意識とか、知識とかいうことを扱うということは、当然、脳を、中枢神経から末梢神経に離散して行くような方向の神経系統を使うというかね。一方では、末梢神経から中枢神経に行って、脳を変えるというか、その辺のところは、少し弱いんですけどね。
鍼灸とか、そういうものを、ある面では、末梢神経から中枢神経に行くことによって、脳を刺激するような方法もあるんですが。どちらと言うと、中枢神経で、自然から開放されるために脳が、全てを制御していくという考え方が、どうしても唯脳論というかね。
ある面では、お働きも、ご修行も、言ってみれば、脳に帰依するような方法で、今まで精進するというか、そういう表現も出来たし、やってきたわけですね。ですから、脳に障害があると、ご修行は動きを使いますから、どうしても動きがあるから、その動きがあることが、まず前提で、正常な脳の状態で、初めて、そこでもって働くというかね。
錐体外路系にしろ、錐体路系にしろ、シナプスが、そこで、正常に働くと、ご修行が出来たということはあるんですが。ですから、そういう判断があって、このご修行を進めているということは、あることはあります。

◇神の道と人の道が合わさって、布斗麻邇の道を開かれる

歴史を遡ると、今で言うと、サヴァン症候群のような、能力を持った人達が、縄文時代にもいて、その人達を周りに囲んで、一つの神の世界を追求したところが、多分にあるんですね。
この近くの釈迦堂の縄文遺跡には、沢山の埴輪の前の、小さい顔の土偶が出土するんですが、それが、人間の顔の土偶を作って、その表情の病気を治したりする、そういう祭祀道具として、祭祀具として使っていたんですね。だから、その頃には、たぶん、そういう顔をした人達が、中心となっていたと。
その方々は、一種の能力者であったと思うんですね。その能力も、色んな自然の中に、一体になる能力や、神示というか、オラクルというんですかね、予言をしたりするような能力もあったり、未来が分かるようなこともありますが、あるいは、非常に形を作るのが上手とか、今で言うと、芸術家のような世界まで含めて、そういう能力が発達していたということはあると思うんですね。だから、今でも、そういう人達を、大切にして、創る社会というのは、きっと平和な社会になると思うんですが。
社会が持続する時の大事なところというのは、やっぱり、実践倫理、行動憲章というんですかね、そういう倫理観や、道徳というものを持っていないと、社会というのは、成り立たないし、持続しないわけですね。決め事みたいなものがあるから、もちろん、その決め事も、自然の大きな災害みたいなものに出会ったりすると、対応をだいぶ変えないといけないところも出てきたりするんでしょうけどね。
少なくとも、そういう倫理という世界が、ちょうど、神と人との間にある、まさに、霊というか、神の道と人の道が、ちょうど合わさって、布斗麻邇の道を開かれるというか、一つの生き方が出来ると思うんですね。そういうところに、倫理というか、どういうふうに生きたら良いかという工夫が出てくるんですね。

◇みんなが神という、全ての人に共有できる生き方

精神というのは、魂というのは、あくまで、何処まで行っても、精神ですから、その精神が育って、そして、それが、皆の役に立つという精神が出来れば、それはそれで良いんですね。そこまでは、一つの人の技というかね。
それも神魔神獣という情緒マンダラというものがあります。精神でいるということは、人でいるということなんですが、そうすると、色んな心の苦労があるわけなんですね。それが、ストレスになって、結局は、病気になったり、悲しみを持つ場合もあって、その世界も、また、確かに、人間の世界ですから、否定する訳ではないんですね。
人としての道というものを、守っていくということは、それはそれでと尊いことなんですが、そこに人の倫理を超えた神という存在、それでなお、生きるということが出来ると尚良いというかね。神を迎えるということは、人の倫理を超えていると。その世界があると、これは、みんなが、神という全ての人に共通で共有できる生き方があると。単なる一民族のための神ではないです。天津神というものは、そういう世界ですね。全ての生きとし生けるものに対して平等に生きる方法をもたらす、そういう働きというものがあるわけですから。

◇宇宙創造から始まる神を、身に受ける

だから、その神の世界の働きを、自分の働きにすることで、人の道を、ある面では超えることができます。そういう世界があるのではないのかと。それを掴むための、脳がというか、人が掴むことでもあるんですが、そういう方法が、ご修行であったり、祓詞であるわけですね。
それは、人が人を許すということではないわけです。許せないという思いが、結局、長い間の確執や闘争が起こる原因になるわけです。だから、そのところは、より上位概念の神という概念から、許すという世界に入ることができないと、いつまでも解決しないわけです。怨念を持ち続けることが善だという考え方にもなりかねない。だから、そのところが、神を持っている民族の神に循環してしまうだけでは民族同士の戦いの解決にはならないですね。
人の、あるいは宇宙の創造のところから始まる神という存在を、身に受けるというか、その生き方を自分が迎えるということが出来ないと、その事が解決しないということになるのではないのかと思うんですね。
これは、一つの絶対論理と言うか、論理で言っているから、それは、細かく分析しないといけないところもありますが。少なくとも、限りなく工夫をしていくんですが、その上で、なお、その工夫が、全ての人類の役に立つものというのは、やはり、それは、創造の神を迎えてできる、そういう世界ではないのかなと。

◇古神道から見た倫理観

どうも、そういう古神道なんかの世界を、今、大学の哲学の先生に、連絡をとって話をしてもらってるところなんですが、その辺りが、出来ていないと。他の宗教には、文献があるけれども、古神道には、文献が無いから、「分からない」と言うんですね。
日本人の哲学をする人達が、古神道が、世界に役に立つか、どうかが分からないんですね。この部分は、我々が、それを、丁寧に説明して、今まで、一子相伝というか、秘密で伝わってきたものの膨大な体系があるわけですから、そのことを、お話しして、お伝えしないと、たぶん、古神道から見た、倫理というか、いわゆる、道徳という世界は、出てこない世界、まだ説明しきっていない世界があるということを感じています。その辺りは、これから、早急にやらないといけない大事な部分ですね。
世界には、もちろん、道徳とか、倫理とか、哲学とか、宗教とか、そういうものの中で学ぶものは、沢山あるんですが。それぞれが、素晴らしいことを言っているわけですが。それを、超えた世界というものが、古神道の中にはあるわけです。その辺りを、やっぱり、問うてみるということが、どうしても必要なのかなと。
今までの宗教観念や、道徳観念だけでは、人類がまとまっていないのですから。日本の一番の研究者達ですよね、そういう最先端の哲学の研究者に、伝わっていないということは、それは、大問題であって、そこをお伝えしながら、やっていこうと思っています。

◇祝詞構文の開発

その時に出てくることが、まさに、神と精神、あるいは、魂、あるいは、人を結ぶ働き、それを、霊と呼んでいたものを、今、我々も、3つの霊ですね、言霊、それから、八神にある結びの霊、そして、御皇霊というものを、前に建てて、それを、学んでみるということをしていくことが、非常に大事なことかなと思っています。
また、その辺りも、更に、お出しすることが、沢山あると思っています。今回、特に、祝詞が、祝詞構文ということで、今まで、人から人へ、寿(ことほ)ぎ、差し上げる言葉というものから、神に一旦、こうなってほしいという言葉を伝えて、そのことをお聞きになられた神々が、また、人にその良き働きをくださるというルートを、更に開発していくということ。また、今まで、あるものをそのまま、神の祝詞構文に変えるということが、可能になるのではないかなと思うんですね。
今までのものが、それを分けて、人は人のところ、今度は、どうやったら、祝詞構文から、ソフトを発信してどうなるかということもやると、そういう世界も、また開けるのではないかなと。だから、まさに、祝詞構文を発信して、そこから、今度は、神から魂、人に伝わるような、繋ぎの世界をしっかりと掴むということが、たぶん、大事なことになるんだと思います。
そんなことで、また、宜しくお願いいたします。