0470話:2018年06月16日

皆さん、今日はご苦労様でございました。
ありがとうございました。

◇諏訪湖の景色

四柱神社にも、皆さんも、お参りいただいて、私は、一足先に諏訪大社一宮の上社、下社にお参りさせていただいて帰ってきました。
出雲に行かれた方も多いんですが、出雲の宍道湖の湖畔に「なかつうみ」と言われているくらい、淡水と海水なんですね、両方混じっているのですが。この諏訪湖の景色が、北の方角から南を望むと、その湖畔が本当に、宍道湖の湖畔とダブってきて、その時に、建御名方神は、出雲を想い、またお母さんの奴奈川姫(ぬなかわひめ)と宍道湖で幼い日にたわむれた事を思い出して、その場所に鎮座されたのではないのかなと。
そういうことが、ふっと想いが浮かんできまして、きっとこの地で、懐かしく回想していたんだと。そういうことを、湖畔を散策しながら最初に感じたんですね。

◇諏訪との因縁

たまたま、下社の方に行きました時、手を洗うところ、手水舎(ちょうずや)のお湯が温かかったんですね、お湯が出ていたんですね。その瞬間に思い出したことがありまして、諏訪の温泉で、実は、小学4年時に、頭を打って、息絶え絶えになった(笑)、その事を思い出しました。友達とふざけて、この諏訪の温泉で頭を打ってしまったんですね。その為、日本語も、あやしいことになってしまいました(笑)
頭を打った時の瞬間の景色とか、本当に脳梗塞や脳出血を起こしたら、そんなことになるだろうなということを、今でも思うんですけれどもね。
それが、諏訪とどういう因縁なのかなと、今日、考え込んでしまったんですね。
戦国時代に、随分と、信州諏訪の皆さんには迷惑をかけていたんだというのが、今日、感じたことですけれどもね。やはり、何かプロジェクトをする時には、色々な体験が出来るんです。身をもって感じるというか、そういう世界があるんですね。
高濱浩先生と関わってから、最初の7年間くらいは、ずっと京都に、毎月通っておりまして、最後の3年位は、いつも甲府から車で、お送りしていたんですが。必ず諏訪を通るわけですが、その時には早く過ぎ去ろうと言うか。だから、何回も、諏訪では、スピード違反で捕まっていて(笑)そんなこともあるんですが。やっぱり、自分の先祖のしたことは、あんまり思い出しくたくなかったのかもしれませんね。やはり、小学4年生の時に報いを受けたというか。
でも、そのことが言霊や白川や鎮魂をするきっかけにさせていただいたのかなということは、非常に感じております。因縁ではないかなということも思っております。

◇黒曜石をめぐる歴史

因縁と言えば、多分、全ての諏訪には、日本の歴史の中で凄い因縁が、沢山、詰まっているのではないかなということは、非常に感じます。ですから、日本の一番古い時代のハイライトというのは黒曜石ですね。諏訪が黒曜石を供給していた、その範囲というのは海の範囲を超えて、大陸でも1000キロ位の広さで、黒曜石の流通が行われているんですね。当然、長野の黒曜石というものは、多分アジアに輸出されていたと。
これもあとで考えますと、長白山、白頭山という、中国と北朝鮮の国境地帯にありますが、これは満州族の領地で、金大偉さんの先祖が王族をしておりましたから、そのことを彼が、色々と彼のことを調べた時にわかったんですが。白頭山には、沢山の黒曜石の欠片があったと言うか、それは長野から持って行ったものもあるし、山から採れたものもあるようです。諏訪の研究が、まさに、縄文の研究になるわけです。
たまたま、さきほどの伊藤利昭さんも紹介されて、日本で初めて黒曜石を発見された相沢忠洋さんが生きておられる頃、奥様と一緒に、岩宿遺跡から出土した黒曜石を守ろうということで、一緒に相沢記念館というものが出来るんですが。我々はそれを、一生懸命、守ろうということでやっていたんです。
その時に、やはり感じたことというのは、旧石器の時代の家族の温もり、それが当時もあったというのが、相沢先生が石器から感じた感慨と仰っていました。黒曜石からにじみ出るような温かさというのは、家庭の温かさだということも、相沢忠洋さんが言われていたと。本当に、それをみると、武器と言うのではなくて、ある面では狩猟していた頃は、きっと獣を獲っていた時もあるんでしょうけれども。様々な料理なんかでも使う、一番鋭いもの、機能美であると同時に、周りから愛が流れ出たんですね。
そういう機会があって、今度は、たまたま我々が、ソフトを作る時に、手助けしてくれたのが、アルメニアの今の大使であるグラント・ポゴシャンさんですね。アルメニアというのは、世界で一番の黒曜石の産地だったんですね。アフリカ、あるいはアジアに黒曜石をもたらしたと。
そういう旧石器、文化というものは、もちろん旧石器、石器、新石器、それから、我々の陶器、銅器、鉄器という一つの流れがあって、一つひとつが審美に繋がっていくわけですね。ですから、今まで必要とされたもの、実用のものが、次第に審美、美しいと言うか、ハレの日に着飾るというところに使われるようなことになったと言いますかね。もちろん、それが貨幣的なものにも変わると言うか。
翡翠なんかは、特にそういう価値を持って、装飾品のようなものでもあったんですが、これもちょうど、建御名方神のお母さんが、お父さんである大国主命と結婚されたのは、やはりこの糸魚川の上流に、そういう工房というのがあって、掘削などして求めていたと。
その前段には、黒曜石があるわけですね。それが、出雲に行って、皆さん、第3回の時には、出雲の石を持っていただきましたけれども、そういう勾玉という形で、神事に使うということを、長らく出雲の玉造温泉というところでやっていたわけです。その元は、多分、奴奈川姫が縄文の末裔として、王女としていらっしゃったと。それで、後で出雲の国に、大国主命の后になられるわけですが。後で、返されてしまうということもあるんですが・・・
多分、子である建御名方神は、国譲りということで従わないという意味合いで書かれていますが、お母さんの後、お帰りになったんじゃないのかなと思うんですね。

◇北方から諏訪へ流れ着いた民族がいた

それは、兎も角と致しまして。次第に、文化というものが旧来の実用化されていたのものが、だんだんと審美に変わっていくと言うか。そういうところがありまして、多分、諏訪には大陸からナウマン象あたりを狩猟しようとして追いかけてきた人達、部族が流れ着いたんではないのかと。
その研究をされていたのが、相沢さん以降の武居先生という方が、縄文の精神を、作られたその文様から調べるという研究をされていたんですね。それで、相沢賞というものを、第5回くらいの相沢賞を貰われるんですが、その時に、相沢さんの奥様から、コピーでいただいたものが、いわゆるバイカル湖周辺とか、そういう北方民族の一つが、諏訪に来られたんじゃあないのかと。そういう内容のフィルムだったんですね。
私も、非常にビックリして、その前後というのは、シャーマニズムの研究をしておりましたから、そういうことかと腑に落ちたのですが。
縄文文明の中で、大きなインパクトを与えた、そういうものを伝えたものが、北方シャーマンですね。
その流れもあると、それは後で、金さんの映画を見ていて分かったわけですね。それは、今度、”諏訪の神事”ということで、寺田鎮子先生の文の中にもあるんですが、鉄の鈴のようなもの、音が出るものを腰に吊るして、シャーマンが、神がかるものが満州族に残っていたんですが。諏訪も全くそれを同じだったんですね。
諏訪のシャーマンと言うか、踊りの中にあるものも、満州族の神事の中にも、そういう事があったということで、本当に寺田さんもビックリされたということでした。
神を迎える時の儀式の時に、鉄というものが使われるようになるんですね。もちろん、楽器として青銅器もそうなんですが。今は、それを鉄器として、それを剣として残っているのが、これが三種の神器、あるいは、石上神宮の七支刀(しちしとう)とか、そういう刀とか剣になっていくわけです。今回、稀勢の里さんも、なかなか次の場所が大事なので、ツアーに来れなくなってしまったんですが。わざわざ、甲府に来られて撮影したものもあるので、後で皆さんにお見せしますけれども。

◇戦いの道具さえ美しさに変えていく

あと、太刀ですね。これも、元々は、江戸の前くらいまでは、一つの武器として、日本刀があるんですが。やはりその後、象徴のようなもの、その象徴が全て石、あるいは青銅器、あるいは鉄器というものは、全て日本では神々の依代にすると言うんですかね。そういう象徴と言いますかね、後には全て美の象徴になったと思うんですね。
ですから、翡翠の美しさ、あるいは銅器、あるいは鉄器の美しさが、日本刀の美にも、最終的には繋がっているのではないのかと。ですから、よく戦いの道具さえも美化してしまうというか、争いというものを悲しいことも多々あるけれども、一つの美に変えいく、美しさに変えていくということが、この日本の文化の特質というと言うか。
また、それを価値として奪い合うのではなくて、それを共に神ごとにして使わせていただくと。文化というものは、そういうものではないかと思うんですね。

◇防人達の想いも文学にしていく

そういう戦いと、例えば大伴家持は、防人の歌を百十首まとめるに当たって、防人の子を、恋人を、親を、故郷を、思う心に、愛おしさに、おろおろしながら戦いに行く防人達の想いを受け止めて、万葉集に残したわけであります。
そういう歌にしてしまうと言うか、和歌という歌にしてしまう。それが万葉集という文学の美ですよね。後々に、日本のみならず、世界で一番古い恋愛小説と言いますか、それが源氏物語にも繋がるわけですが。それは、我々が蘆山寺や石山本願寺とも関係がありますから、そういうものを、もう一度、たまたま白川家の菩提寺も蘆山寺にありますから、よく住職さんとも話しましたが。
そういう文学と言うんですかね、そういう文学にしていくということ、もちろん、音楽というものもそうですね。あるいは芸術として、折口信夫の「死者の書」の中に出て来る、中将姫もそうですが。もちろん、万葉集は、大伯皇女(おおくのひめみこ)の六首の歌になっておりますけれども。
それを戦前に「死者の書」にしたのが折口信夫であって、戦後に作ったものが、今日、本岩さんに歌っていただいた「鎮魂頌」という曲は、折口信夫の昭和22年の作品ですが。人が神になると、養子の子供が戦争に行って神になりましたということを、歌う歌で、それを信時潔さんが、まさに「海ゆかば」を始めとして、交響曲「海道東征」を北原白秋詞を大伴家持の詩を作曲してくださったという経緯があって、今日は、皆様方に美しい音色と言いますか、その精神を奉演でお聞きいただいたわけであります。

◇「神になりたまえり」

そういう和歌と言いますか、一つひとつの当時の詩ですから、まさに、マントラの様なものであったと思うのですが、そういう詩が、また曲が出来上がって素晴らしい、美しい歌が出来上がりましたと。
そういう戦いに行った人が神になるんだということを、折口信夫は、本当に、我が子で証明されたというんですかね。その詩が出てきたと。「神になりたまえり」というふうに、ハッキリと言われているわけですね。
その世界というのは、我々は、我々の先祖の遠津御祖神を大事にするように、戦争で、民族の為に亡くなった方々が、神になりましたということを歌っていると。しかも、それを美しく歌っているわけであります。
そういうことを何というか、自分の権力や、そういうことの為に使うのではなくて、本当に民族の安寧と、平和の為に戦うというところの精神の麗しさと言うんですかね。

◇信州の人達の熱い想い

非常に、諏訪の人達は優しいんですね。諏訪だけではなくて、信州の方は、私の母親の弟にもなっていただいた方も、信州の方ですが、非常に優しい方ですね。
この叔父さんは、戦前、台湾の人々に、農業の神と言われたくらいの方で、生きてて神様で、まだ98歳くらいで生きていますが。生きて神になった人も、結構いるんですが。それくらいに、信州の人は、賢くて強い、ブレない心を持っていると。
ですから、戦前、最後に天皇陛下をお守りしようとしたのは、信州の松代(まつしろ)の人達で、そこに仮宮を作っていたこともありますね。昭和天皇の最後に来ていただくところとして、松代に残そうとされた。
それはやはり、何故、信州かと言うと、ただ山の奥ではなくて、そういう非常に、熱い想いと、人の良さですね。この頭の良さというのは、多分、それこそユダヤ人の人たちが、沢山来られているから、そういう血もあるのかもしれませんが。非常に、優秀です。日本の法曹界、教育界では、沢山の逸材を輩出していますね。
一方で、もちろん国を良くする為の革命思想というものも、早くからこの地では育まれたと。

◇縄文の美

それから縄文、縄文の時の美を作品から感じたのが、岡本太郎なんですね。岡本太郎は、自分も御柱祭の柱に、最初「乗りたい」ということを言って、「死んでも良いんですか」と何回も言われて諦めたらしいですが。そのミシャグジ神が、”太陽の塔”のシンボルにもなっております。いわゆる、縄文人の原型になるような、神の伝統があるわけです。多分、縄文の火焔土器のような、世界で一番初めて出来た土器で、その土器というのは、一番の文化なんですね。それが、一番安全な解毒作用を持つ土器に仕立てたのが、縄文の火焔土器であり、世界で最古の文化であると思うんですね。
その伝統が、我々が、石器と共に、あるいは土器と共に、縄文の文化を知る縁(よすが)になっていて、そしてそれが、だんだん神器、神の器と言いますか、神様が、そこに来臨されるような存在としての器になったわけではないんです。石器の石の文化から、青銅器、そして、鉄器と。アジア、あるいは中近東から、沢山、日本に来て鉄器の文化を伝えて、それが出雲になって。
建御名方神は、諏訪まで来て、その鉄器も、シャーマニズムも、最後に伝えて残っていると。これは日本の中で、諏訪だけだと思うんですね。いわゆる、アニミズムと言うか、シャーマニズム、トーテミズムという形で、進化したものが、遠津御祖神、人が神になり、そしてその神話が、今後は、天津神という神になり、そして神々の使う言葉が、また神として、暗号として残されている日本文明と言いますか。一万六千年も、繋げていただいた縄文の文化は、それは人を食ったり、動物を殺したりするということだけを、一つの生きる術にしてこなかったというか。
その後の、採集や栽培だけではなくて、農耕というところまで、食文化も発達させた歴史、また器というものも文化になっていくと、それを料理するものも、一つの美になっていくというかですね。

◇美の先に神がいらっしゃる

今、雑器と美術品なんかの違いというものも、時々、表現の仕方もありますけれどもね。
また、相撲でも、栃錦、若乃花さんなんかは、“心技体、美”ということを、”相撲美”ということを言いましたけれども。
日本人が、日本の文化を学び、そして極めようとすると、必ず美と言うか、そこに行き着いて、美の先に神がいらっしゃるというか。その神というものを繋げる神器としての器というものも、125代の天皇が、もう退位まで1年を切ってしましましたが、天皇の器教、器の学びとして、帝王学もあるわけだし、一方では、縄文期からの日本文明の表現されたものであると。そのところを、この1年で、そのことをしっかりと知ろうというか、証明してみようということがあるのではないかと思っています。この美の神秘というものも、色々とこれから研究の成果を、皆様方に、また発表できると思うですが。
そういう精緻な、一つの技術的なものに裏付けされた一つの神器と言うんですかね。そういうものにまで高められたら、非常に良いのかなと。
ですから、我々は三種の神器とか、十種神宝というもので伝えられてきた内容を科学して、そしてまたそれを美にして、最高の技術にして、そしてそれが窮極に美しいというところまで引き上げていくということを、今、そういうプロジェクトも進めているわけです。今日、皆様方にその一部をお伝えしております。

◇NETTENネッテン=熱天

一宮というのは、古代の神の精神のネットワークと言うことです。ということになるわけです。これは、情報のネットワークであり、その道であり、そして、一人ひとりの命を守っていくことに繋がれば、それが今の時代の新しい文明になっていくと。
これは一昔前、“網の文明”という言い方があったんですね。30年くらい前は、ネットの文明のことを日本語で“網の文明”というふうに言っていて、それが社会を変えるということを言ってきたんですね。それが、システム哲学やシステム学習法から、だんだんと作られていったと伝えてきたわけですが。
その名前も、ネットワークが一番と言うか、最高という意味で、今、出方をBETTENと言っていますが、このBETTENも、別天神という天之御中主神から始まる造化の五神のことですが。これを、BETTENからNETTENとですね。楽天ではないです(笑)NETTEN、だから、反対から読んでもNETTENなんですね。ネッテン=熱天と言います。これが、結構良いかなと思っていて、神秘的に言うと神様が教えてくれたと。ということで、勝手に喜んでおるんですが。
まさに、ある人も「あなたの後ろから、66とか、88の番号が見えるんですよ」と言って、誰かがメールで白川学館に知らせた方がいて。
「どうしてわかったのかな」と(笑)。今日、諏訪の下社に行く時に、666のナンバーの車が何台も出てくるんですね。もう嫌になって、普通はキリスト教だと、666は悪魔の数で・・・我々も、昔は全ての車に「万物」という数の555という番号にしていた時代がありました。今日は、666(本当は人間という意味)が一杯出ていて、何かおかしいなと思いながらいたのですが。
「そうか、666は、一宮が66箇所、守り手が66人だ」と。これは、国を守る人の数が、66という意味の刻印と言いますかね。私なんかは、額に神社の印が出ちゃったんですが。数も、66とか、88は、国を守る数だと、日本では長らく、そういうことだったんですね。これは、大伴家持もその内の一人だったんですね。そういう数が、そういう人達の為に祓うのがお祓いの言葉が大祓であったと。

◇「大祓」をベースにした文化を世界に

これも日本の文学の一番古い文学が、実は大祓でもあるわけですね、古事記でもありますが。そういうものをベースにして文化にするということなんだと、そういうことが、最高の世界で、また、そういう文化が世界に必要だったら、そういう文化を輸出しましょうねということで、大伴さんなんかは、この6年、7年、国会議員を励まして来たんですが。何か、その法案が通るようなところまで、漕ぎ着けたということで、執念深い人だなと思って見てて(笑)。
文化法案ですね。日本の文化を、世界にお伝えすると。あるいは、一緒に交流するということを、一つの国法にしょうと、国の法律にしようということをやってこられたんですね。ですから、我々は、諜報とか聞くと怖いように思いますが・・・今、世界に戦争がないのは、諜報のお陰ではないかと思いますね。戦争をなくすのも諜報であると。
分かれば戦争をする意味がないですから、何兆円、稼げるから戦争するということになるんでしょうけれども。
だから、東アジアで、戦争するにも爆弾落とすたって、3兆円分にするのは、大変ですよね。そういう爆弾を落とせないような状況になったら、今度は貿易戦争なんてね。
中国とやってて、それも3兆円程度となるんですよね、という話で、それはどっちもどっちですよね。たいした意味もないと思うですね。やはり売るもの、お金というものにする意味が分かっていないのではないかと。

◇共に”Nigi”通貨を持っていただきたい

それで今、我々も、”Nigi”という地域通貨と言うのか、あるいは将来、円に替わるか分かりませんけれども(笑)あるいは、仮想通貨と言いますか。白川学館の中では、ずっと使われてきたんですね、Nigiが。どうしたらNigiがもらえるかというと、自分の意見を言った人が、Nigiをもらえる、1Nigiが。そうとう貯めた人もいると思うのですが、それは自分の意見を言うということが、文化、あるいは社会の役に立つ意見になると思うですね。そういうものが、1Nigiとなると。
この1Nigiも、6年、7年経っていますから、多分、仮想通貨としては、何億円かになっているのではないかと思っていたんですが。そういうものも既に、時間泥棒の”モモ”という作品を書かれたミハエル・エンデさんが、地域通貨を始めて、そういうものを表明した作家でしたが、それを、ベースにして我々も言ってきました、自分達の中だけですけどもね。
今、地域通貨も、一杯出ておりますが、我々も、あるいは国が必要になった、地域通貨も出来ておりますが、それも終の棲家に至るまで、その時にも役立つような通貨であることが良いのではないかということで開発しております。我々はこの辺りの専門家が沢山います。なかには会計士を辞めて、その研究に没頭してる人が何人かいますけれども(笑)。
そういうこともありまして、一番、専門分野でもありますから、いよいよ、このNigiも圀手會の皆様方に、一番新しいものをお伝えするということで、昨日分かったことでも、決意したことでも、今日、皆さんにお伝えするという意味で、諏訪というのは、ビビットな会合として、今日、ここに来ても、まだ諏訪を巡りながら感じたことを、皆様にお伝えしながら、共にNigiを持っていただきたいということを感じております。
そんなことでございまして、今日はもう時間が、だいぶ押しておりますので、この辺で、目次だけ言って終わりで、物足りないところもありましょうけれども、はふりめく等々でもまた言わせていただいたり、早急に圀手會の第5回、6回というものも、ドンドン開いて、伊勢では圀手會の年間の報告が出来るようなにやっていきたいなと思っております。どうか、宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。