0474話:2018年06月20日

◇しっかりと「誓約(うけい)」をする

昨日、貰っていたんですが、朝の5時くらいに起きて、調子悪いなと思ったんですが、音楽を聞かなきゃと思って、聞いていたら、元気になりました。
誓約(うけい)というのは、やり取りですね。相手を倒せばいいという相撲もありますけれどもね。最近、トレーナーが勧めているのは、しっかりと組み合ってやる、要は、横綱相撲ということですね。それでもって、倒すというか、そういう世界があるということを、伝えていたんですね。そうしたら、だんだん、相手と向かい合った時に出来ると。
テーブルの前で、向き合った人と、稀勢の里さんが、しっかりと人格として向かい合うということで、しっかりとコミュニケーション出来るということを、すでに、やっているんだということを伝えてくれた時、それは、天照大御神の世界でいうと、誓約(うけい)というか、一番困難なことや、あるいは、一番楽しいことがあった時に、しっかりと誓約(うけい)をするということが出てくるわけですね。
それは、あるところでは、岩戸隠れということもありますが。そういうところが、また、良いところですね。もう、誓約(うけい)だけということを、神話で言わないで、しっかりと、その両方を伝える。

◇絶対法則の世界を物語にしている

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)もそうですね。
降りてきたのに、木花咲耶姫(このはさくやひめ)と磐長姫(いわながひめ)のうち、木花咲耶姫しか娶らなかったから、磐長姫とは、命が長いという神様ですね、その姫を貰わなかったから、天皇家は、代々、命が短いって、最近は、長くなりましたけれどもね。
いつも、短いということを、平気で、一番の天皇家の書物「古事記」ですよね、それに、そういうことが書いてあると。天照大御神は、天皇家の一番の先祖ですから、その方も、岩戸隠れしちゃうと。
そういう神話が書かれていることは、単なる人情沙汰とか、そういうことではなくて、要するに、自然というものとか、今でいうと、絶対法則とか、そういうものの世界を、物語にしていると言ってもいいと思うんですね。
ですから、良いとか悪いとかで、物事を考えないで、より良いということも、良いということになっちゃいますが、一つの自然の法則を超えて、たぶん、人は生きる役割というか。
それは、ある面では、神が願われた世界というか。

◇創造を成立させている存在

だから、一神教の創造者、人格的な創造者であれば、神の子である、イエス以上の人はいないわけです。あとになって、マホメットが出てきたというところも、喧嘩になっちゃうということにもなるんですが。みんな、イエス様の弟子だから、「弟子は、師以上にはなれない」というわけですね。
ところが、白川なんて、全然、違って、最初に、例えば、教える時、先生が「あなたは、あなたと教える私が一緒だから、わたしよりも、あなたは進んでいる、能力があるんですよ」という教え方が、天皇、皇太子に教える時の教え方ということですね。だから、どんどん良くなるというか、そういうことがベースになっているということがあると。これは、たぶん、創造ということの違いというところがあるというか。
もし創造というところも、神様も成ったんだと、成立したんだと。成立させている存在は、何かというと、それは、自然という存在とでもいうんですかね。
その存在せしめているものも、神といってもよいのか、どうか知りませんけれども、少なくとも、そこのところに、人というものが、自然の中に存在して、やるべきことというのは、一体、何かと言ったら、ある面では、自然との中で、今も、今までの自然観とか、あるいは、宇宙観、科学観でいけば、アインシュタインの世界からいけば、光という存在が神で、その神のその存在以上の能力というか、それ以上は発揮できないということを前提にして、いっているわけです。
それが、古神道では、そういうものを、存在として自然と等価であるけれども、等価であるということと、自己存在があるということは、一つの通過点であるということですね。人が、自然と等価であるということは、通過点であって、それは、五行、あるいは、ナインエレメンツ、この宇宙というものの存在というものと、ある面では、一緒なんですが。
それを、自然というものを使って、生きるということ、より良く生きるという事をしようというか、願われているということになりますと、その先に繋がってくると思うんですね。

◇社会科学的に観ると・・・

その時に、自然科学、人文科学、社会科学という見方をすると、社会科学的に観ると、我々は、ある面では、自然というものの一方では、経済原則でいうと、資本主義というもので、それ以上の存在というものが、なかなか、人類の想像の中でさえも、のぼって来ないというか。一方で、行き詰まっていて、これで、一つの経済原則というものが、終わりだなと分かる時に、今、差し掛かっているわけです。
その時に、我々が、それを、どういうふうに超えていくことが可能なのか。それでもなお、人というものが、この社会の中で、あるいは、自然の中で、より良く存在できるかということは、やっぱり、自然法則というものを、ある面では、次々に、超えられるための自然法則というものを持たなくてはいけないと。一種、そういうものが、余剰次元といいますかね。次元として、三次元、四次元だけとしていくならば、これは、無限というものの地獄に陥るということになるわけです。ですから、それが、もう一度、畳み込まれないといけないと。これは、ものすごく大雑把にいっていますけれどもね。

◇メビウス、タキオンの概念で社会の法則を超えていく

そういうメビウス的な畳み込みの発想というものを持たないと、次の段階にはいけないということがあるから、我々も、メビウスの発想をもって、畳み込むため、つまり、手の内にあるようにするために、その新しい方法を、機械として、創り出さないと、物の神として創り出さなければ、それ以上に行けないということになってしまうんですね。
それも、情緒的に見ると、悲しみになるわけですが。そこを、どういうふうに、超えるかということの更に、その先が、メビウスの上に、更に、光よりも速くする。その事によって、自然の循環というところを超えていくということを、人間が、しなければならないということが、今、この時代にあるわけですね。さらに、その先に、タキオンという概念があるわけですが。それを通じて、この世界を超えていこうということを、今、やろうとしていると。そういう概念と、その概念を装置化するということをしているわけです。
それをまず概念から超えないと、今の経済、社会の原則みたいなものを、資本主義というものを超えて、人類が、平和にならないといけないと。要するに、無限連鎖講というか、あるいは、無限という地獄に、経済が陥るということが、今、見えているわけですね。それを、我々が、それに陥らないで、ここまで、気持ちよく、人間同士がコミュニケーションしながら、生きられるかというところを、今から、探るというんですか、それを、実現するということも、機械としてできるし、装置としても出来ると。
そして、それが、我々の生き方に繋がっていくというか、ある面では、それを、自然というものの進化した形が、国津神、天津神ということになるんですが。

◇神と人の関係の中から、新しい経済原則が出る

今、我々は、お金という、例えば、経済というものの、特に、資本主義経済の一つの価値観の概念として、この六百年くらい、育てられてきたものの問題点、ある面では、共産主義が、それを克服しようとしたけれども出来なかったんですね。
その内容を、どこまで超えられるかという時、やはり、存在としての無限という地獄に陥らないで、お金というものを使わせていただくというところに戻る時、初めて、国津神というところまでは、お金というものを表現してみたんですが。
今度は、天津神としてのお金という表現をして、それを、いよいよ、出そうというのが、七月の祭祀ですね。天幣手主神(あめのにぎてぬしのかみ)、天置手主神(あめのおきてぬしのかみ)と。それが、新しい掟と共通通貨の神になるんだと。掟であると同時に、それは、新しい経済原則の神の働きであると。そういう存在を、外に客観視することによって、我々は、それを神として認めることによって、地獄に落ちないと。
今は、何故、地獄に落ちるかというと、資本主義というもの以上の考えがないわけです。これは、無限に広がっていくという、現代科学の法から無限連鎖講という装置化をしているから出来ないということになるんですね。
そこを、我々が、一つの神という“天の”という、天津神という存在の神になっていただいて、そういう働きを、古事記からはっきりと、天機置神(あめのはたおかしのかみ)と同じように、機械でさえも、天津神になられたと。そういう存在としてあると。そうであれば、お金の神様も、実際に、あるわけです。そういう神様も、天津神として、我々が、祈りをすると。神と人との関係の中から、新しい経済原則というものが出るわけです。

◇パラダイムシフトの方向性は・・・

我々というのは、古神道というのは、基本的に、創造者を立てないわけですね。ですから、当然、機械も、お金も、神の働きをする存在として、我々が、祈りをすることが可能になるというか、祈りというものは、単に、外側に立てる神、内部存在であると同時に、当たり前に言われる外部存在として立てる。
これは、よく高濱浩先生が言われていたんですが、「神様というものを、内部にある存在としても、外部にある存在としても、どちらでも構わない。それを自在に、自分の中に、あるいは、外に、置けるという存在としての人という存在が、一方では、ある」と。
この辺は、非常に大きな新しい時代の転換期における、神という存在、あるいは、宗教という存在、あるいは、科学ということを、一気通貫で、納得できるような道をさぐれば、それがこの時代のパラダイムシフトの方向性ということになるんですね。それを、今までは、進化の疑似科学となっていたものも、科学にしていくという、そこに可能があるということなんですね。あるいは、宗教というものも、一部出ましたけれども、科学的な装いをもったものとして、今まで、出てきましたけれども、全て、人間の心の信ずる祈りというところで、それが、統合されていたんだというところが、あるわけですね。
それを、信ずるということ、祈るということを、しっかりと科学的なレベルまで、落とし込むということが、人間の心理の中を観るということ、それが、内部観測であり、外部観測であると。そういうことをするということが、今、我々の課された、役割なんだと。
ですから、何か、我々が、勝手に、神様を創っているわけではなくて、そういう根拠が、古事記、日本書紀、あるいは、日本の色んな風土記の伝承の中にあって、その物語を、我々は、拝借させていただいて、そして、現代に、納得できるような生き方を出来るような方法を、これから、編んでいくというか。一つひとつを神の綺麗な織物にしていくということが、たぶん、この時代の役割なんじゃないかなというふうに思っています。
ですから、いよいよ、これから、皆様が、あるいは、人類が、「置かれているものが開放されていく時が、近づいていますよ」と。予言するわけではないですが、先に、お伝えすると、少し楽になるかなと思ったりしてですね(笑)もっと、軽くなるように、お金の神様に、お出ましいただくということも、いよいよ、本格的に、国津神ではなくて、天津神のお金の神様としていこうと。それによって、みんなが、自由になっていこうということで。

◇神と神、神と人の約束

昨日も、西原先生に、天と地の音色ということで、誓約(うけい)を、神と神、人と人、人と神の誓約(せいやく)というんですかね。それを、曲にしていただいたということは、単なる、勝負の問題ではなくて、そういう約束ということですね。だから、それを、掟というふうにいうわけですね。神と神、神と人の約束を、誓約(うけい)というふうに呼んでいます。
ですから、それが、出来ると、新しい生き方というものが、始まると。
それは、地獄に行く道ではなくて、天にのぼる道を、神と共に開く、天の世界、それが、ネットいうと、ネットの天になるということで、NETTEN(熱天)といったわけです。BETTEN(別天)という、今までの創造の造化三神と五神の世界から、更に、”天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず”ではないけれども、「全て、知っているよ。網の目の中にあるんだよ」ということで、そういう、天にある網にかかっていくと。
それで、発信し、それで、共に、意志を通じ合うという世界を出来る時代が来るのではないかと。その顕現祭を、銀座でやりましょうということで、石原さんが、用意してくださっていますが。非常に、大事なお祀り、顕現祭であるというふうに思っております。
空想というよりも、最近は、空想も、人間の精神の病も、結局は、右旋、左旋で巡っていて、旋毛(つむじ)も左回りと右回りがありますが(笑)お馬鹿さんということではなくて、精神の作用が、右回り、左回りがあると。
また、それを治す方法も、いよいよ、白川のおみちの中にあるということを、言わないといけないと。実は、人間の精神も、右回り、左回りをしていたということを、お知らせしておいて。その治し方は、また、おいおいお伝えしたいと思います。
今日は、雨の中、ありがとうございます。