0475話:2018年06月20日

昨日、稀勢の里の応援歌を、篳篥とか笙で、西原祐二先生に作っていただきました。西原先生は、今週末に”十二音会”という日本の雅楽の最高峰の奏者が行う演奏会があるんですね、紀尾井ホールで。それの練習もおありになるのに、昨日、本当に無理を言って、曲を演奏していただいたのですが。

◇「今ここに、神生まれ給えり」

その時に、諏訪のツアーでもやりました、”鎮魂頌”という折口信夫の作詞を、信時潔さんという、”海ゆかば”を作曲された東京藝大の先生だった方が、戦後に作曲された鎮魂頌、両方、録音しました。
我々も、鎮魂頌の中の詩の中に、「今ここに、神生まれ給えり」と言うか、そういう最後の文言があるんですが。これは前に言ったかもしれませんが、折口信夫の養子にあたるお子さんが、戦死した後、戦後になって詞を作って、もちろん、靖国の意味もあるんでしょうけれども、その詞に信時潔さんが作曲したものなのです。
これは精霊という原始信仰から、宗教学発達史的に言えば、精霊からシャーマニズム(神がかり)、トーテミズム、動物の種を利用した、そういう一族が分かれていく時に、どう暮らしたらよいかという倫理とかがトーテミズムになるのですが。もちろん、神道とは全ての形態を含んでいると言ってもよいわけですね。
要するに、精霊と言うものがですね、大きく魂のようなものになって、数多く有ったものが五魂と言うんですかね、統合される、これはもちろん鎮魂にも結び付くようになるでしょうし、また、シャーマニズムというのも、まさに神を迎えるという異界(他界)の、あるいは神の世界の中に入っていくというようなことの意味の方が大きいのですが。
その辺が、ちょっと日本の神道と日本以外のシャーマニズムの違いはありますが、いずれにしても非常に似ているわけですね。そういうアニミズム、シャーマニズム、トーテミズムというものの先にあるものが、やはり人が神になると。
我々は、神道では、もちろん先祖の神というような言い方だったり、ヒンズー教なんかでいうと、PIA(ピア)と言うんですかね、先祖に対する愛という形もありますけれどもね。日本仏教で言うと、一つの先祖を弔うと言うんですかね、そういう意味の世界もあります。そういう仏教も神道も、両方足して、先祖崇拝みたいな言い方にもなりますけれどもね。
折口さんは、民俗学者とも言われていますが、宗教の研究、もちろん詩人の釈迢空(しゃくちょうくう)、特に神道を研究されたんですね。その折口さんの息子さんが亡くなって、神になったんだという実感を得て、詞にされたんですね。

◇人を通じて神が修行される

それを、今朝5時位に、出来たての音源を、CDにしたものを聞いていたのですが、今日、皆様方のご修行されを拝見していて、もちろん進んだ方も、前半では、沢山いらっしゃいますが、後半では、まだまだこれから始めようという方々なわけですが。
その皆様方が、もうすでに神ですね、遠津御祖神をお迎えしている姿を、沢山拝見させていただいて、まさに白川で言う、最初の神になっていただくということの修行が、あちこちで出来て、非常に嬉しい限りでございます。
という考え方は、沢山あるのですが、特に、白川では、人を通じて神が修行されるという概念もあるんですね。白川は、何があっても慢心しないという取り決めではないけれども、たった一つの誓詞と言いますか生き方と言うんですかね。ということなんですね。ですから、人が神を迎えて、神様の修行をさせてあげると。本気で思ったら、ちょっと傲慢になっちゃうかなというところも、無きにしもあらずなのです。一方、実にこれは凄いことだなと。
神も、天津神もあれば、国津神もあれば、遠津御祖神、自然の五行、あるいは、九行の神もあるわけですね。風の神、空も神、そしてその水も、木も、土も、金も、神であると。
そういう意味では、自然というものは、ほとんど見える存在ですね。水は、なかなか透明な場合は見えないけど、質量は手にありますから、実は、白川の外でやる修行の中で、本当は綺麗な水を、川で掬って、そしてそれに、お祓いをかけるという修行もあるんですね。これは良い修行なのですが。
具体的には、質量と言うか、目に見えると言うか、風は見えない場合もありますから、その風の神というのは違った存在として、自然の神様の中では特別な存在にもなりますけれどもね。言ってみれば、神の神が修行されるんだと。そういう世界なんだと。

◇子孫である自分が先祖を迎え、共に先祖の修行をする

特に、最初に遠津御祖神という、皆様方の先祖がご修行をすると。もちろんそれも、その存在が神であるのですが、子孫である自分が迎えることによって、新たに先祖として遠津御祖神を認め、そして、その先祖と共に先祖の修行をされると。
ですから中には、少し辛い思いをして亡くなった先祖もいるかもしれませんよね。そういう下部因縁という言い方が、仏教的にはありますが、そういうものも、因縁を解消する意味でそういう修行になると。
神がまた、神の因縁を解消する修行をされるという面もあって、若干、動きが、ただ仰向けに寝るということだけではない場合もありますが。押し並べて、非常に穏やかな姿と言うんですかね。仰向けというのは、人類になった印というのが、どうも仰向けになるということで背中が真っ直ぐになるでしょ。動物は、必ず伏せて寝ますよね。仰向けに寝る動物は居ないと思うんですね(笑)ですから、仰向けに寝るということは、非常に何と言うか、不思議な世界ですが。背中が真っ直ぐになって、喉に息が入りやすくなったと、我々は言葉を発せられるようになったと言われます。ですから、後ろに、仰向けに倒れる姿というのは、多分、人類が7万年なのか、20万年なのか知りませんけれども。
要するに、数十万年から数万年の間に、原人という種類の、それもまた先祖と言えるかもしれませんが、我々は、ホモ・サピエンスという種ですから、クロマニョン人の末裔ということになりますが、そうでない時に、安全の為に、洞窟に住んでいたことで、全く安全だから、仰向けに休むようになったということになったのかもしれませんね。その辺はよく分かりませんが、少なくともそういう存在が人間になっていく過程での遠津御祖神という姿を、体勢的に取ることになったんですね。
これは、無理矢理に、後ろに寝かしているわけではないんですよ。堪らなく、後ろに引っ張られて、もう堪らないなという場合があって、無造作に、後ろに倒れていたことがあったんですが。そういう時には、少し前にお知らせして、その形になっていただくということをさせてもたっているのですが、それも、一つの遠津御祖神がご修行すると。

◇遠津御祖神、自然の神を迎えたら、次は・・・

ですから、全ての白川の修行というのは、神の修行であるというふうに言うわけです。その先の修行も、全てに名前が付いているわけです。五行の自然も神の名前が付いておりますけれども、その神様をお迎えして、その神様が自分の上でもって修行をされると言うか。
自然は、ただ自然のままの動きしかないわけですから、人がそれをしますと、少し不自然な動き、修行になるみたいであるのかもしれませんけれども(笑)自然を人間が一体となって修行しちゃうと。
非常に、穿った見方でしたら、「そんなことは、ありえない」という方もあるかもしれませんけれどもね。白川には、そういうふうに伝わっておりますので、お伝えしておきます。
多分、白川だけだと思うんですね。
そういう木火土金水の自然の神様を、大方迎えたら、今度は国津神という神をお迎えするんですね。国津神という神様は、今度は人間が生きる為の様々な働きを、もちろん自然の中にありますが、社会性をもつ働き、あるいは神と人がコミュニケーションする為の場の働きをされる神ということです。少なくとも、それは国津神という神は、遠津御祖神、自然の神を迎えて、国津神という神様を迎えて、その上で今後は、天津神を迎えるという重層構造と言うのか、階層性になっていて、それ全体の神の修行をするということをお伝えしているわけですね。

◇全て、神の動きの範疇

ですから、それは「全て神の修行をするのであって、我々が人の修行や動物の修行はしませんよ」というのは、そういうことを徹底しているわけですね。ですから、皆さんの動きの中には、動物の動きとか、人の動きというものは、出ません。
一部、こんなことをやれば、仏教の修行者の、こういう手を離して書き出したらいけないので、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」と、私も手に書いたことがあったら、それは「九字を切っているんだ」と先生に言われて、先生が苦笑いされたことがありましたけれどもね。
もちろん、神事をする時は、神代が神示を受ける時がありますから、それはまた別の形がありますけれどもね。殆どの場合、神示には声を出しませんし、それ以外の不必要な動き、もちろん我々が関わるわけですから、人の動きではあるのですが、それは全て、神の動きの範疇ということになります。どんな動きでも、そういうことになっております。
本当に、動物が好きでも、必ず、人であるということと、動物であるということを、明確にしなさいということは、大祓にも書いてあるわけですね。
そういう蟲物せる罪、「人と動物の心意を混ぜたらダメだよ」ということを、ずっと大祓でやっているわけですから。我々はそれをしないということで、神をお迎えして、神が私の手で修行をしていただくということです。

◇地が上で、天が下”地天泰”

だいたい、帝王学、天皇の学びなんていうのは、全部というか殆どが、民間と全く正反対に出来ていると思ったらいいですね。でも見方は、非常に精緻に、色々な方向からの見方が出来るというのが、帝王の学びなんですね。ですから、易なんかは帝王学の一つですから、”地天泰”は上下が真っ逆さまになるんですね。天地と定まっていたら良いように思いますが、それは否定の否なんですね。
地が上で、天が下である卦が”泰”という安泰の泰で、一番中庸で理想的な易の卦が地天泰で、これは逆さまですよね。天地否と。天地というのは、天地という形で、一方では、帝王の支配が出来るとお思いになりますが、実は、易でも違うように、殆どということを、神道を学んだ時に知りました。
ですから、これから皆様も、逆立ちしたりすることも、先に言っちゃったら、マズいのかもしれませんが(笑)逆立ちすることもあるから、若干、腕の筋力が弱い人はトレーニングしておいた方が良いかもしれないというのは、首を痛めたらいけないなというのがあります。でも、苦手だったら、それは「なった!」ということにするという裏技もありますから(笑)。その時には「ちょっと力がありません」と言っていただいてですね。これも、面白いんですね。

◇ウキウキ楽しいことが沢山あります

満洲のシャーマンと、インドのヨーガの修行と、この日本の白川は、全く同じだったんですね。アジアと言うか、日本とユーラシアは同じところがあるんですね。
真っ逆さまに、違うということがありますが、それは人間がやることではないんですから、神様のする修行ですから。そうなる場合もあります。そういうことでございまして「実に、楽しいんですよ!」ということをお伝えしたかったんです。最初、慣れるまでは、ちょっとドギマギすることもありましょうけれどもね。
高濱浩先生から、「七沢さんね、神様をこの手で掴みたいですか?」と聞かれましたから、「是非、掴みたいです」と返事したんですけどね。皆様も掴んで下さい、非常に楽しいことになると思います。最初は慣れないから、神様との動きで合わないこともありましょうけれども、神経(かみのみち)が徐々に慣れていきますと、非常にウキウキ楽しいことが沢山ありますので、是非とも、お続けいただきたいと思います。
今日はそんなところで、ありがとうございました。