0479話:2018年06月23日

もう6月で、大祓の月になってしまいましたが、皆様方が6回の講義を受講されて、沢山の学びをなさったことと思います。沢山過ぎて、どういう目的で何を学ぶのか、というのが分かりづらいところもあったのではないかと感じております。

◇浅く広く、とにかく学べと・・・

これも、私の恥をさらすような、あるいは、私の人生を皆様に見ていただくと言うか、そういうところもあったかな、と感じております。
なぜかと申しますと、私は高校・大学・大学院と、点数は全然ないのですけれど、入学して卒業した奇跡の人でございまして、学問的には(笑)。ほとんど、勉強していないと言うか、それで、結局たくさんの学びを未だにしておりますが。生涯学習とか、生涯研修とかいう言葉がありますけれど、まさに一生涯学ばなければいけない羽目に陥ったということかなと理解してですね、学んでいるつもりでございますけれど。
私は一方では、先生に恵まれまして、大学の頃からそうですけれど、言語学の中では世界の第一人者の奈良毅先生、私が言語学を主にやったわけではありませんけれど、先生が宗教やインド文化を研究されていらしたので、その門下生としてベンガル語とインド宗教、それから日本神道の中の鎮魂の勉強をさせていただきました。
大学がすぐ近くでしたから、昔の北区西ヶ原というところにあった東京外国語大学の中のA・A研(アジア・アフリカ言語文化研究所)というところで勉強させていただいていたんですけれど。その先生が、あなたは知識を深く掘り下げなくていい、と。まあ、見抜かれていたんでしょうね、あまり細かいところは向いていないと言うか(笑)。
実は先の圀手會の諏訪ツアーでも思い出したんですが、昔あそこで頭を打ってしまってですね、それ以来、日本語の1ヵ国語ですら怪しいような言葉を使って、宇宙人じゃないの、と時々言われているんですけれど。
まあ、そんなことで、金大偉さんは友達ですけれど、金さんの日本語は時々おかしいなんて、私はとても言えません。自分はもっとおかしいから(笑)。
お前は浅く広く、とにかく学べと、そのように20代のはじめの時に先生から引導を渡されたということです。それでも先生は、私の為に一生懸命に、どこか教育の仕事を探しておられたんですけれど、私はそれを無にしてしまうわけですね。
まぁ、そのつけが今にもあると。教育と言いますか、勉強のところにまた関わってしまうと言うか、そういう運命かな、と。

◇ライフチェンジのためのオリエンテーション

ライフチェンジというところに行ったら、どういうふうに学びの方向を変えてくれるんだと、あるいは、どういうふうに変わるんだということが、皆様方の関心であろうかと思うのですけれど、今回は、ある面では、私が自分で言うのもおかしいのですけれども、ライフチェンジの為の学びというものの総覧にはなったのかな、と。
普通、大学では一年間学ぶ前にオリエンテーションということで、1週間から10日程度で、どんな科目があるかを事前に調査したり、体験したりしてから、何を学ぶかと決める。そして、それを1年間学ぶということになるわけですね。まず学部を選ぶという段階のところもあるわけですけれど、昔は教養学部というものもあったわけですけれど、今回は多分、ライフチェンジのオリエンテーションで、目次ばかり多くてと言うか。
深く知りたい、学びたいというところは、これから一体何を学べばいいの、と皆様お感じになったのではないかと。そういう点においては、非常に申し訳なかったということをここでお詫びさせていただきたいと思うのですね。非常に反省しておりますけれど。
5月の週間ダイヤモンドに、プログラミングとリベラルアーツという表題のついた記事が特集されておりました。皆様方の中にもお読みになった方が沢山いらっしゃると思いますが、それを読ませていただいて、このことだったんだなと。5回目の講義が終わる頃になって今ごろ、そんなことが分かっても、しょうがないなと思ったんですけれど(笑)。

◇プログラミングとリベラルアーツ

今の知の世界を変えると言いますか、戦後70年くらいの科学、あるいは学問の進化というのは、システム哲学を元にした一つのコンピューターのシステムの中に、そういう知を閉じ込めると言うか、そういうところが一つの大きな課題としてあったのではないのかなと思うんですね。
そういう意味では、今、プログラミングと言うか、プログラミング言語を心理学に応用した、NLP神経言語プログラミングという学びもございましたけれど、一種のプログラミングという言語と言いますか、一種、人工的なものでもありますけれど、そういう人工言語を使って、知の発達を促すという方向に、一方では行っているということであるわけですね。もう一方では、リベラルアーツということで言えば、一番最先端の科学を学ぼうということが、欧米の大学の一つの方向で、この山梨にも、大学で外国人の先生方と外国人の生徒を集めた学部、リベラルアーツ学部というのが出来てですね、そこで私も2年間、神道の講義をさせていただいたのですけれども。
リベラルアーツというのは、皆様方も講義の中でお聞きになられたと思うのですけれど、これは元々、ヨーロッパでは、神学というのが一番進んだ学びであり、学問の中の学問の位置にありましたけれど、哲学や様々な科学が発達することによって、神学の位置が怪しくなったんですね。
今では、リベラルアーツが神学を学ぶ為の前提となる学問であったとは理解しにくいものになっていたと言えると思うのですけれど、本来はそこに至る前提の学びと言うか。
一方で、今、非常に、神学と言うか、イスラム圏では自動的にイスラム教徒になる方が沢山いらっしゃいますし、幼児洗礼というものもありますが、教会に入らない自由もあります。キリスト教では、ルターの宗教改革もありましたから、ある程度はカトリックの普遍権威というところから、若干ニュアンスが変わってきたところがあると思うのですけれど、歴史上で言えば、キリスト教の神という学問を学ぶ、ということにリベラルアーツはなるわけだったんですけれど。

◇何を学べば心理の問題を解決できるか

その部分が、心理学の発達によって、今度は心理学を学べば、そういう問題が解決するのではないかと思われた。この点アメリカでは、心理カウンセリングが医学の中の一番の頂点に立った時代がありますし、必ず大統領は心理カウンセラーをお持ちになっているということがある。
そういう意味の心理学というものを、心理が今の時代で、一人ひとりの心の中が不安になったり、恐怖などの感情を持ちながら生きるのが大変苦しい心理状態になることを、どう解決したらよいかというところが、現代社会の大きなテーマとしてあるのではないのか。
今、ヨーロッパの方たちには、ある程度、専門家の方なんかは日本の禅の公案を説いたり、ヨーロッパにも禅寺、永平寺の公認のお寺もありますけれど、そういうふうに、仏教やヒンズーやヨーガといった瞑想法でを癒やし、解決しようということを、マインドフルネス瞑想という形で世界に出てきています。
それは今、百兆円以上の事業規模があると言われておりますね。このことは、何よりキリスト教や他の宗教の弱体化によって起こった結果で、哲学も瞑想法も東洋のものを取り入れて、特にこの40、50年、特に発達したんです。
もちろん、人生というものを転換するという意味での、一つの内容と言いますか、人生を転換することを前提とした学びの内容はどういうものかということを、前提にして学んでいって、何を学べば転換できるかということを考えると言うか。

◇輪廻に関しては不問にする

ライフチェンジの先に、リインカネーションという言葉がさらに付きますと、これは人文科学・社会科学・自然科学という範疇から超えて、一種の神秘の領域にも入っていくような内容であったり、心の深いところのテーマになったり、ここのところはなかなか難しいところで、証明するのが難しい部分もあろうかと思うのですけれども。
例えばインドにおいて、今、仏教が一億人を突破したと言われていますけれど、これはアンベードカルという仏教指導者がいたのですけれど、その跡を受けた佐々井秀嶺さんという日本人の方が、頭領として頑張っておられますが、このポイントというのは、インドですから、輪廻と転生と分けることもありますけれど、輪廻転生を前提にした宗教群の学びであるというところが特徴になっているわけです。
これは非常に大事な部分ではないかと思うのですけれど。リインカネーションのことを言わない仏教というのは、それは本当に仏教か、というと、それはもはや仏教ではない一つの新宗教思想のようなものになってしまうのかもしれませんが、今、インドで流行ると言うか、見直されている仏教です。
奈良先生が、インドのコルタカを、昔はカルカッタと言いましたが、その時代に、インドの仏教についての日本の論文を国会図書館で調べよ、ということで調べたことがあったんです。英語の論文を調べろ、と先生は言わないんですね。私は英語が出来ないので(笑)。その日本語の論文を調べた時、当時インドの仏教徒はまだ4百万人でしたね。それから40年以上経ちまして、今は1億人になりました。
大きくそれに貢献したのは、リインカネーションと言うか、輪廻に関しては、不問にするという部分があるのではないかと思うんですけれどね。輪廻というものを言わないで、生き方として捉えれば、バラモン教、ヒンズー教、そして仏教というのは、非常に進んだ論説や宗教観というのを持っている宗教哲学であり、あるいは宗教であると言えると思うのですね。
ですから、今の段階で仏教が、インドに出発点を持ちながら、カーストや輪廻というものを問わないで学べる人生というものに行き着くということは、なんとも不思議な進化ではないのではないかと思うのですね。
先程申しました、マインドフルネス瞑想も、だんだん宗教色を無くして、心理に絞った学びをしようという動きが起こっているということですね。

◇今、人類は、知の発達を機械で補えることに挑戦している

一方では、先程から申しておりますイノベーションと言いますか、一つのコンピューターのシステムの進化によって出てくることと言いますか。これは結局、言語、知識をコンピューターの中に内蔵するということは、まだ20年くらい前に、ようやく起こったようなもので、最初は単なる計算機と言うか。私が高校の時に初めて見た計算機というのは、織物の機械のようなもので、こんなに大きな箱で、今の手の平サイズの計算機より、もっともっと原始的な、織物の機械のようでありましたけれど。
計算事務機が知識事務機に変わっていくということが、もちろん計算することを得意とされる方は、江戸時代から、そろばんは必須の科目で、何の商売をするにも、勘定ということでもってやってきたわけですけれど、それが機械に変わっていく。
これは今、シンギュラリティーと言って、盛んに宣伝されて、人工知能が人間の知能を超える、というようなことを心配していますけれど、これは多分杞憂と言うか、天が落ちてくるのを心配するのに似ているところがあると思いますけれど、なかなかそうはいかないと思いますが(笑)。そこはちょっと首をかしげながら行った方がいいのではないかと思います。少なくとも、知識の獲得の方法やその学びの方法は、こういうふうにすれば・・・お金がこういうふうに親指を操るだけでたくさん数えられるといいですけれど、スマホはいくらやってもお金を使うだけになりますけれども(笑)、失礼な言い方をしてすみません。
知識事務機になるということに移行する時の、今のITをどう使うかだと思うのですけれど。カント的な古い哲学で言えば、知情意というか、そういうそれぞれの発達段階があるとすれば、まず知の発達を機械で補えるか、というところを今、人類は一生懸命、挑戦していると言うか、装置化を図っていると言えると思うのですね。これも一つの大きな文明転換と言いますか、変えていくテーマになると思うのですけれど。
今回は、色々な学問の可能性に間口を広げ過ぎたということもありますけれど、リベラルアーツと言いますと、一番新しい科学を学ぶ為には、簡単に言えば、これだけの通過しなければならない関門と言いますか、前理解をしておかなければならないものがあるのではないかと。
皆様方も色々な表現でお聞きになった講義は、そういうところを満たす必要十分条件であったのではないかということでございます。

◇ヨーロッパの神学

神学ということでお話させていただきますと、ヨーロッパで言いますと、一神教の人格神ですね。一神で、しかも人間と同じような人格ならぬ神格があり、あるいは人に関わって働いて下さる存在。様々な呼び名、神の表現がありますね、ユダヤ教では、モーセに現れた神は在りて在るもの、ですとか、あるいはヤッハーとか、ヤハウェとか、エホバとかあります。キリスト教では父なる神、イエスのお父さんと呼ばれる神様、あるいはイスラム教のアッラーの神とか、一神教の錚々たる神々の名前があるわけですけれど。
主にヘブライズムと言うか、そういう系統はあるわけですけれど、神とは何か、あるいは神を信仰させてください、というのも変な言い方ですけれど、そういう形で神様と出会うというところ、あるいは自分の身でもって、神を体感したいと言うか、そういう世界が今まで、修道士・修道女などの努力で沢山の神と出会う修行が行われてきたわけですけれど。

◇古神道の白川という学びでは・・・

それは少し置いておいて、私は、古神道の白川という学びをさせていただいて、これはどちらかと言うと制度上の役職のようなところもあるし、それが神祇官というような官もありました。あるいはそれを家が受け継いで学んでいくというような、一子相伝という形での、「白川伯王家」という学びの家があったし、それを支えてもらう為の「白川家学館」というのもあったりして、これは「家」が入っていましたけれど、今、我々がそれを学べるのは「白川学館」ということで、「家」が取れて、一般社団法人になっておりますけれど。
この白川学館というのは、まさに神の、一般的に言いますと公家の神拝作法ですね。その伝授というか、それが精緻にあったと。私もシステム哲学、あるいはシステム科学を日本でも初めの頃に学ばせていただいた者として、非常にシステマティックにできていると感じています。
1000年前の空海さんがもたらした真言宗のような、仏の道、学ぶ体系がありましたが、大日如来に行く道のシステムというのが、非常に優れた方法としてありますけれど、それ以外の学びではないのかな、と思うのが、この白川の神拝作法で、第10種から第1種までありまして、その内、第3種から第1種までが、天皇陛下が白川の伯王からお学びになる、そういう内容でありまして、それが十種神寶かは言えませんけれど、少なくとも神を伝えると言いますか、その中身であると言います。

◇原始信仰が発達して宗教になったものが、日本に残っている

まずハッキリあるのは、普通は宗教というのはアニミズム、シャーマニズム、トーテミズムと言うように、原始信仰という形が発達して、宗教になっていったものが、日本の中にはすべて残っていると言ってもいいと思いますね。そういうものが綺麗に残っていると言いますか、その内容が、古神道の、縄文以来の、生きた伝統を持った学びなんですね。
ですから、最初に自然というものの中にある働きと言いますか、それも一つの精霊という意味で、水や、木や草や、土や金や、火。火の精霊はあまり・・・水や木の精霊は多いですけれど。精霊という概念が古代からあったのではないか、ということを宗教学的に、人間の心の発達と同時に、宗教的なものも発達したのではないか、という科学的な捉え方をするのですね。
それが精霊という信仰の形としてあったり、シャーマンという神懸りする、というようなものがあったり、それがまた動物か、人間か、異界の霊か、分からない状態のもの、神の前段のようなものがシャーマンとしてあったのではないか、ということも言われています。
あとはトーテミズムというものがあって、これは動物崇拝と言われますけれど、動物の家族が別れていく時の様子を人類が見ていてですね、ああ、人類もそういうふうに別れないといけないのかな、と動物から学んだわけですね。
狩猟だけではなくて、犬などと狩猟を一緒にしただけではなくて、どうも種族が分かれていく時の時期を学んだのではないのかなと。家族を守る為に、インセストタブーと言うのですけれど、近親相姦に陥らないようにするということも、種を保存する為の学びが、動物の家族のありようの中にあったのではないのかなと。
よくトーテムというのは、アメリカのインディアンにトーテムポールがありますけれど、そういうものがあった証拠と言われているわけですね。

◇遠津御祖神人が神になることを最初に学ぶ

我々は、最初に出てくる神という存在は、人が神になることを最初に学ぶと言いますか、今の科学でも、DNAということで言えば、曲げるわけにはいかない法則となっているのではないのかなと思います。
折口信夫さんと言うと、詩人の釋迢空(しゃくちょうくう)さんのことですが、自分の子どもが戦死なさった時に、戦後、靖国のイメージもありましょうけれど、自分の子どもが確かに神になりたまえり、とそういう詩を作られたわけですね。
我々の先祖も、我々の生きているお父さんもお母さんも、そして生きている我々も神なんだと、それを遠津御祖神と呼びます。
これは生きていても、亡くなっていても、遠津御祖神ということになるわけですね。ですから、我々は、一人ひとりが生きた神なんだと。思想的に間違って伝えられた場合、天皇が生き神、生きた神であるとして、一部誤用されたこともありましょうけれど、基本的に我々は、先祖崇拝ということだけではありませんけれど、生きた神、亡くなった先祖も遠津御祖神として出会うと言うか。
我々がそのまま、遠津御祖神でもいいんですけれど、敢えて亡くなった先祖を遠津御祖神としてお迎えするという、そういう作法があるわけですね。そこから神というものの世界に入るわけですね。

◇五行の神誰にでも分かる自然を使って学ぶ

その先は、今度は自然、木火土金水という、一つひとつの五行に、五行の神の名前が付いています。
ですから代表的なところで言いますと、今日、午前中に森田君が講義されました、宇宙の中に始めて現れたアメノミナカヌシという、古事記の神様が、これは「水中主(ミナカヌシ)」とも言うんですね。水の中の主と。ですから、まさに水というものが祭祀の根幹にあっただろうということが予測されるんですね。水の神を迎えていく、ということも我々はやるわけですね。
そういうことをありありとやる、ということが多分、神を掴む為の大事なステップですね。五行というのは、誰にでも分かるわけですから、そこを使って学ぶと言うか、神を掴むという第二段階がございます。

◇国津神という神様社会科学的な意味の学び

その次には、国津神という神様。これは一つの社会科学的な意味の学び、と言うのでしょうか。神を、人間が一番スムーズに、平安清明な、いい状態の世界にする方法を学ぶ、そういう社会にする為に学ぶ、あるいは神を迎える、その神を国津神と言うわけですね。
国津神が沢山の一宮に配置されて、それがネットワーク的に広がっているというのが、日本の延喜式の神々の配置ですね。神様のネットワークが、日本には精緻に敷き詰められていると言ってもいいんですね。それは各地方の仕事、あるいは特産物、自然というものとの絡みで、その働きの神を迎えることをしていると言ってもいいと思いますね。

◇天津神という神様階層を学ぶ

その後またさらにお迎えするのが、天津神という神になります。天津神という神もまた非常に大切な、古事記の神話の中にある神様ということになります。
神格と言っても、様々な階層があって、その学びをしていくということが、一つの大事な要件になっている、ということが言えると思います。

◇白川の神々は信仰する神ではない

白川のポイントが、神をこの手で掴むと言うかですね、実体験ですね。神は遠くにあって信仰するものではない、というのが縄文からの日本の伝統だと思うんですね。
それが原始信仰や、シャーマニズム、トーテミズム、そしてその先祖崇拝というものに培われてですね、普通だったら、政治の役割みたいな部分ですね。国津神という働きはですね、より良いマツリゴトが出来るというのが、その人たちの為に祓いや、あるいは神の働きですね。神として名付けられていたというのが、日本の伝統ということになります。ですから、白川の言う神々という伝統の、それは信仰する神ではないんですね。
最終的には天津神と言うですね、神話に出て来る神々の子孫によって護られているというのが、日本の天皇制も含めたですね、マツリゴトの方法ということですね。ですから、信仰する神はいない。
18世紀、19世紀の神智学という学問が起こったりして、神秘を、神を知るということが学問になるという、神智学という、そういう考え方がありますし、今も、そういうものを受け継いだ人たちもいます。
昔、インドのムンバイに本部があった頃、訪ねたことがありますけれども、白川というのはどうもですね、信仰する神はいないし、神を信仰するわけでもない、神を知るだけでもない、神をこの手で掴むという言い方はですね、触覚ですから、あるいは食べちゃうなんていうのは味覚ですよね。それを、孝明天皇をお教えになられた、高濱清七郎先生は「神を喰うてみよ」というふうに言われたんですね。私の先生は、「この手で掴みますか?」というふうに、「神をこの手で掴みたいんですか?」と言われたんですね。「ぜひ、掴みたいです」というのが、今から40年近く前になりますかね、先生との出会いの時なんですけども。

◇神感関学(しんかんかんがく)

そういう学びの時を経まして、それは、どういう学問かなと考えた時、それは、神知覚学、知覚する、それは知覚だけでもないわけですね、五感で体感する学び、神感関学(しんかんかんがく)とでも言うのでしょうか。そういうものが実は残っているわけですね。
これは多分、天皇陛下が天皇(すめらみこと)というふうに言われて、ながらく少なくとも、欠史8代とありますけれども、そういうものも含めても125代の天皇が日本という国の中心におられた。そこに権力があったとか無かったとかではなくて、確かに、神武天皇の時には、神の武と言われたくらいですから、そういう両方があったと思いますが、そういう神を中心にした学びを持っている。
それはですね当然、神を知らなければどうしようもないんですね。神官として神を求めるというようなところではないのですね。ご自分で分かっている、体感しているということが、一つの前提になるものが国家と、国というところに繋がるということですね。それが国津神であると。
ですから、そのことが出来なければ、たいしてこの今の時代に、ヨーロッパから、あれはアニミズムだろ?とかですね、あるいは、シャーマニズムではないの?あるいは、先祖崇拝ではないの?というような程度で終わってしまうということになるわけですね。
ですからその違いが、日本の白川の言っている神を、しっかりと掴むという「神の体験学である」「神感関学」というふうにも言えるのではないのかなと。

◇実験的に証明できるものが白川の学

その内容をですね、ですから学びが、システム的に誰にでも平等に掴めるように感じられるような、そういうものにしてくということが白川を科学する、それを江戸時代からも白川家学館という風に言われてきたわけですね。学びの館である。
学びの館ってことは、少なくとも学問であり、それを今風に言うと、科学すると言うかですね、私はそういう神の体験を学ぶ「神感関学」という学問がきっとおこるのではないのかなと思っておりまして、当面は、その証明の試みを、実験祭祀学というような、祭りと祀りを重ねていく学びになるのではないのかなと。実験的に証明できるものが白川の学である、という確信をもって言っておきます。

◇御一人の為の学びだった帝王学を科学する

本来、白川学というのは、これは上御一人ですね。あるいは、内親王とか、皇太子とかですね、天皇陛下になられる為の大切な作法として、御一人の為の学びと言うかですね、それが帝王学と言いますか。
帝王学は、元々、帝王におなりになる一人にお知らせすればいいわけですけども、今の時代では、それぞれの企業というものはグローバルになってきましたから、ある面では、どんな企業も世界のトップに立つことも可能にはなりうる世界ではないかと思うんですね。
そういった時に、経営者の皆様にはやっぱり帝王学を学んでいただかなければいけないのではないのかなというようなこともあります。この後も、その辺のところも若干触れていただけるんじゃないかと思いますけども、少なくとも、神をしっかりと、沢山の人が掴む前提になる方法を持たないと、それをしないと科学にはならない。

◇リベラルアーツが終わったところから始まる学び

これは我々がまさに、リベラルアーツとしての次のステージの中に、あるいはリベラルアーツが終わったところから始まる学びが、まさにそういう白川学であり、鎮魂学であり、言霊学の帝王学のインフラになる学びではないのかなと。その3つを提案できる、その学びが、まだ日本では表明されていないと言うんですかね。
そういう存在さえも、今まで公家の学びと言うんですかね、白川も言霊を伝えた一条家という家柄も、冷泉家とかもですね、ほとんどが公家の学びであったと思うんですね。
ですから、今からでも、このマインドフルネス瞑想が、あるいはリベラルアーツが、あるいは、もう一度、宗教というものが見直される時が来たときにですね、その時には宗教が信仰によって証明する方法という形だけをとらなくて、我々がしっかりと、誰もがみんなが掴めた、とわかったと言える、そういう科学が必要であると思うんですね。
そういう形で、これからその3つの学びが出来る道が開ければ、これは多分、世界がなんなの?それはなんなの?と知りたいということを言ってこられるんじゃないのかなというふうに思っているんですね。

◇科学を経て文化の時代へ

今、日本が世界に誇るものというのは、もうじき、はやぶさ2が、小惑星リュウグウのところに着く時になりましたけれども、そういう素晴らしい日本の科学技術でもありますね。宇宙科学としての最先端のところに行っていると思いますけども、科学技術もみんなの役に立つものにまで、高度化することは、日本の技術者が行ってきたと思うんですね。中心的な役割をしてきたと。
そういう中でさらに、今度は日本に変わって、中国とか、世界の人たちがまたそれをさらに沢山の人たちに技術としてお分けするというところまで進んできているわけですね。もちろんこれからも、我々がやる役割はあると思いますけども、そういうものが一段落した時に、世界は何を求めるようになるのかなということですね。
今、世界の人たちが日本に来られて、感動するものは、自然であったり、あるいは人の生き方から醸し出す振る舞いであったり、あるいは音楽であったり、あるいは美術であったり、すでに文化の時代になっていると言うんですかね、文化を、そういう環境とですね、文化遺産も、観光もですね、芸術的文化の創生を伝える、そういう時にきているのではないのかなと。
そういう時にですね、いよいよ、日本文化というものを通じて、世界にお出しすることになったというですね、わたしはまた、世界が鎮魂とそれから神の掴み方である白川と、それから言霊の3つはまだ知られていない、知らしていないところ。
きっとですね、どうせ日本人以外にわからないんじゃないの?とたかをくくってきたと思うんですけど、それを今可能にするものは、やはり平等観と、科学的態度、そういうものが今、人類に必要とされていると言うんですかね。
それを使って、誰でも平等・自由に、人種や性別の違いを超えて、それをお伝えするということが出来るかどうか、というところが、これからの我々の大事なミッションになるのではないのかなと。そんなことを感じるわけですね。

◇どういう社会にしたら、人類が、共に生きがいのある人生を送れるのか

今、議員立法でですね、日本の文化を世界に、そして、世界と日本の文化の交流を推し進めようということで、どうもそういう法律が日の目を見ようとしているようでございます。
きっとですね、文化というものの、ですから事業というものに、当然それがなると思うんですね。
それが今回、我々が科学として、それをどのように世界に知らしたらいいかというところの学問の内容のところを目次として皆様に提示して、もちろん、その数学や物理学や様々な進んだ学問がこれからますます盛んになる、先に進んだ学問も、さらに進んでいくと思いますけども、一方で、人文科学、あるいはどういう社会にしたら一番人類が共に生きがいのある人生を送れるのかというところも含めた、社会科学と言いますか、そういうものもこれから日本が主導的な役割を持ってお伝え出来るのではないのかなと。
あるいは、そういう文化の統合だけではなくて、コミュニケーションのプラットフォームに日本がなるのではないのかなということがですね、それを学ぶリベラルアーツ、あるいはその結果、ライフチェンジすることができる、その役割を担うと言うんですかね。
人生を変えてもらう為の、そういうひとつの役割と言いますか、そういうものを提示していくことが出来れば世界に役に立つんじゃないのかな、ということを感じて、この6回の講義をはじめるひとつの動機の表明とその来し方行く末を総観したのかなというふうに思っております。
そんなことでございまして、大学の講義の時間だと、あと10分ぐらいありますので、何かご質問あれば、この際、お受けしたいと思いますけど、どなたかございますか。

●質問者A
広く浅くというのは、網羅するという意味もあるんでしょうか。

【七沢先生】

◇知識の模式化技術「ナレッジモデリング」

そうですね、僕がもちろん網羅っていうことで、一種の統合というところに向かうためのものという意味合い、インテグレートと言うんですかね。そんな意味を含んでいるんだろうと思うんですけれど、今、学問になっているわけではないんですけど、知識の模式化技術(ナレッジモデリング:knowledgemodeling)というのを提案しているんですね。
ナレッジモデリングという概念を25年ぐらい前から研究しておりました。ですから、その頃の会社はですね、ナレッジモデリング研究所って言いました。それは網羅、分類、体系化、承認という知識の内容を、一つの学問化する方法として、まず、網羅ということをしましょうということでですね。
網羅する時には、全ての知識の最小単位と言いますか、それを明示して、どの単位で知識を綺麗に区切るかということで、その上で、あらゆる知識のかたまりを一意味語(一単語一意味)にした上で、全て網羅する、その時代の中で、出来るだけ網羅する。
昔、色々な方法とかですね、色々な網羅方法もありましたけども、今あんまり言わないですけど、そういうウィキペディアとか、事象的なところで、だいたい満足しているようなところもありますけど。
あらゆる学問においても、そういうものを個別個別にやっていますけども、それをさらに全体としてでですね、網羅できる方法というものを明示して、一つにする、その上で、更に、意識するということ、知覚するということの最小単位は何かというところの研究がですね、結局は言霊という、日本語に代表されるような言魂(ことだま)というのはですね、世界の文学だけではなくて、そういう言語というものにも最小単位があるのではないのかと、それは母音だけではないと言うかですね。

◇当時、言霊学は蚊帳の外だった

日本語が一番、父韻というような概念と母音が、父と母ですね。そして子という、子音という最小単位を明示してですね、意識を作っていくというふうな、そういうことも当時、ちょうど言語学にコンピューターを導入した当時だったんですけども、まだ一音が「あ」というのは、明るいから「あ」なんだっていう、その程度の言語学では、言霊学は蚊帳の外だったということでですね。
奈良先生がもう一つ言われていたのは、言霊学をこれから私が研究したいと表明した時、「まだ学問的には無理です」と、その当時、言われましたけども。ようやく「あ」というものが、あるいは「た」というものが、何ヘルツで稼働するか、そういうこともわかったのは、つい十何年か前なんですね。やっと、十数年前にその研究が始まるわけですね。
それくらい言語というものが、はっきりとした周波数で、五十音を網羅することが出来なかった時代が、いよいよこれからそういう知識の素になる、ベースになる最小単位が言霊で、あと周波数をもつ、というところまで辿り着いたと言うかですね。
それが今、ロゴストロンという機械に、装置として言語を落とし込んで、それを発信したら、情緒がどんな感情になるのか、というところまで研究をさせていただいているというところに今あるわけですけども、それは最初に、科学的な方法と言いますかね、やるべきことが、それが全てを網羅するということであったということになります。

●質問者A
ありがとうございます。

●質問者B
先生ありがとうございます。先ほど先生がご説明されている中に、世界の人々を解放するもの、これを伝えていく中に「鎮魂」「白川」「言霊」ということ、人文科学的な体系として、文化交流のプラットフォームとして、今後、学問を作って、築いていかれるのかなと、私は感じ取ったのですけれども、世界ということが、先生の視界の中にあるので、非常に簡単なところで、もし日本語を話す海外の方に伝えると仮にした場合、例えば、天津神とは何か?国津神とは何か?言霊とは何か?ということを、初歩の初歩として、もし伝えることが出来るとしたら、どんなふうにお伝えするとお分かりになると思われるのか教えていただいて宜しいですか。

◯司会者
アメリカや海外にいらっしゃる、日本語を話せない方に、言霊の中にある、天津神であるとか、国津神であるとか、こういった学びのことを伝える場合どのような伝え方をすれば宜しいでしょうか?
という内容でよろしいですか?

●質問者B
日本語を話す方、話さない方で違いがあれば、言霊についても教えてください。

【七沢先生】

◇英語版「言霊百神」

今ですね、実は「言霊百神」の、ちょうど6月末ぐらいに、英語訳が出来るんですね、これは画期的でですね。小笠原先生との約束でですね、40数年前に先生がどなたかにお願いして、英訳を作ったんですけど、私に箱ごと捨ててこいと言われたことがあって、先生のアパートから捨てに行きました。今になって思いますと、一冊ぐらい取っておいたらよかったんじゃないかなと思います。確かに、国会図書館にあるんですけどね、それは全く参照にしなくて、リベラルアーツで2年間講義をした時に、通訳をしてくれた須賀君に翻訳を頼んだんです。
その時に、「言霊」も「鎮魂」も「白川」もさせていただいたんですけど、その時にやはり、なかなか難しいなと感じました。先生が出会ったと同じ、そういうところにぶつかりまして、それから早く作ろうということでですね、せいて、せいて、翻訳してただきました。
心から感謝しているんですけど。
どう英語圏の方に、古事記、あるいは神々の名前を、意味をお伝えするかというのは、本当に大事なところだなと思って、そこを誤りのないように伝えるようにしました。画期的な本になると思います。

◇隕石の中にも水がある、それが最初の日本の神でもある

まずは世界の研究者が、最初に学んでくれるんじゃないのかと、私の先生の頃は、神道なんかでは時々、変わった修行法として、世界からくる場合も、忍者みたいなところですね。
忍者の学び方みたいな形で、神道を学ぶ人もなきにしもあらずだったのですけども、やっぱり、言霊、あるいは日本の神々をどう理解するかというのはですね、なかなか手強いテーマだったんですね。ですから小笠原先生は、「世界は、天之御中主の神って言ったってわからないよね」と言われておりました。
そこを今、午前中の水の研究もそうですけども、まさに隕石の、火の玉で落ちてくる隕石の中にも水があるわけですね。その水という、それが最初の日本の神でもある。その神が成ったんだと、高天原に出てきたんだ、という神話ですから、神話的にも、また現代の科学として、それを解き明かす方法は、なきにしもあらずではないかなというふうに思っておりますが。

◇一方通行ではない、神々とのコミュニケーション

また、神々の最小単位も、人間が結局は神を名付けるわけですね。神様はこういう神様で呼んで、っていう場合はもちろん沢山ありますし、あると思いますけど、人間がこういう神、こういう働きをする神様っていったい何なんだろうなっていうですね、そういう一方通行ではない神々とのコミュニケーションによって、そういう名前も出てくるのではないのかなという。
今の所、そういうふうなこともあるのではないのかなということも、今、研究をさせていただいております。是非ですね、「言霊百神」をお読みいただきたいなと、英語訳をですね。
日本の人には、英語訳を今度は日本語にもう一回訳してもらおうかと。そうするともっとわかりやすいのではないのかなと、それもまたお願いをしております。そんなことでございます。

●質問者B
ありがとうございました。

◯司会者
最新の情報で伺ったのですが、あの「言霊百神」を挑戦された方も多くいらっしゃると思いますが、私は途中で断念したのですが、英語訳に成功されて、今月末には完成予定ということと、今おっしゃっていたように、英語に訳したものを再度日本語にすることで、凄くわかりやすくなるんじゃないかという試みをされるというお話で大丈夫ですか。

【七沢先生】
そうですね、言霊の初歩的理解はですね、「言霊はこうして実現する」というのが大野さんのですね、あれが英訳にもなっているはずですね。ですからそのあたりからも、一つのとっかかりにはなるのかなというふうには思っております。

◯司会者
本が完成して日本でも手に入れられるようになったら、お知らせなどさせていただけるかと思いますので、参考にしていただければと思います。

【七沢先生】
すみません、大変にお聞き苦しいところが多々あったでしょうけれども、お許しください。またお会い出来る機会がありますれば、何なりとまたご質問いただければ、その時にまたお答えしたいと思っております。また宜しくお願いいたします。
今日はありがとうございました。