【新元号について、七沢代表へのインタビュー録】

(1)万葉集からの引用の意味
新元号が、ついに決まりましたね。「はふりめく」でも少し話をしたのですが、私たちも万葉集百首というものを選んだり、大伴家持(おおとものやかもち)ら、防人の歌を百五十首選んで防衛省の方に送ったりということをしていましたから、万葉集から選ばれたということについては、関係者の皆さんは驚かれたのではないかと思います。

皆さんは、ニュースで、すでにご存知かと思いますが、今回の新元号の「令和」の文字は、大伴家の大伴旅人(おおとものたびと)が自身の邸宅で開いた梅花の宴の際に詠んだ、三十二首の和歌の前に置かれた漢文の序文『初春令月、気淑風和』の文言から引用されています。
※気淑風和:初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す』

美しい歌ですね。このときの大伴旅人は、一種の左遷のような形で大宰府に赴任しています。菅原道真も、やはり左遷されていて、そのときの心境を詠んだ『東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな)主(あるじ)なしとて 春を忘るな』の歌が知られています。この道真と同じ境遇で太宰帥になり、大伴旅人も、またこの地で梅と蘭について詠んだわけですね。そこには、左遷されようが、あるいは防人であろうが、どの階層であろうが、要するに言葉というものの上においては、誰もが皆、平等なのだという平等観があるのです。だからこそ、万葉集には、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民という幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められているわけですね。

ヨーロッパなどでは、身分が違うと言葉遣いが違っていた。たとえばフランス語なら4階級くらいあって、各階級で違う言葉を使ってコミュニケーションをとるわけですよね。日本も平安時に遡(さかのぼ)っていくと、宮中の言葉というものも存在していたわけですが、歌は、どこの誰でも、みんな同じで、誰でも使えて、楽しめて、表現できる。そういう感性を表現できるというのは、日本だけなのだ、ということはいえると思います。最古の歌集に、そのような平等観が垣間見えるというのは誇り高いことですね。それが日本語というか、「言霊の幸う国」たる所以(ゆえん)であり、謂れなんですね。

渡来人であった山上憶良が、日本をそのように表現したわけですが、短詩形というのは感性のもので、その時の率直な、そのままの気持ちを歌としてこめなければ、詠むことのできないものです。5・7・5・7・7の三十一文字(みそひともじ)という形式はあっても、ロジックは使わないわけです。また嘘がないという部分が一番大事にされていました。4600首すべての歌に、その素直な感性と情緒がそのまま表出してできたのが万葉集で、そこから元号を引用するというのは、今回が初めてのことで、極めて象徴的な出来事ですね。

万葉学者の上野誠・奈良大学教授の、「時代を通じて変わらない人間の思いやりや優しさが詠まれた日本文学の原点だ。新元号をきっかけに多くの人に親しんでほしい」といった談話もありましたね。日本書紀や古事記などではなく、ぬくもりあるこの国民文学から元号が選ばれたことは非常に意義深い、新しい時代の始まりを意味すると。これは非常に、ユニークなというか、新しい問いかけですね。これまではすべて、漢書籍から引用していました。漢字ですから、探せばあらゆる文章の中には似たようなものがあるかもしれませんが、漢語というより、それが日本化した国語というものを使って、日本の和の精神を表現したのが、この万葉集の短詩形なんですね。

特に、それを得意とした大友旅人が、桜ではなく梅を詠んだものです。梅といえば、本来、中国ですが、それを日本の感性で歌っていくわけです。その日本の和の精神というのが、やはり「真面目さ」だと思うのですね。「真実」が、そのまま言葉の心に表れ、そして心が言葉に表れる。そういうことの表現が昔からこの国にはあって、だからこそすべての事象、あるいは言葉に対する真面目な取り組みがあるわけです。その「言ったこと、言葉が成る」という誠(真)の教え、真実を掴むための学びとしてあるのが「和学」です。

(2)「令和」と「和学」
江戸時代から明治にかけて、白川神道は古神道ではなく「和学」といわれていました。明治時代、ヨーロッパのさまざまなものが日本に入ってきましたが、中にはいろいろ偏(かたよ)りがあって、歴史学などの学問が、真実としてということではなく、自分たちの都合のいいように使えるような、そういう内容を含んでいたということですよね。高濱清七郎先生や、本田親徳、そのような方々が、それを見破って、真実ではないことがどんどん流布されてくるのだということに対応する必要性を感じていました。それで高濱清七郎先生は「和学」というものを打ち立てたわけです。

その教えを伝える場所が「和学教授所」です。先日、白川学館会員の皆様専用の和学への門として公開させていただいたのですが、これも万葉集というところからこの文字を引用したことに繋がってくるわけです。「言葉が成る」、和の学び、言葉が学びになるということの意味を、我々は万葉集の歌の真実に見るわけです。今はフェイクが蔓延するような時代だから、真実の、真理に開かれるような時代になってほしいということが、この「令和」という元号の意味でもあると思います。元号がつけられることの背景に、「言葉が成る」ということがあるわけですね。だからこそ、元号の言葉は国の象徴となって、未来がそうなったということの予祝として、あるいは災いを未然に防ぐ「未然法の祓い」として生きるわけです。

(3)元号の意味
元号の制定によって、少なくとも「この時代はそういうことを目指していく」ということ、それを天皇中心に行っていくことが、立憲君主的に、日本の祭政、祭祀と政治がある、ということの証明のようなものですね。祭政におけるある種の標語のようなものとして、元号があるわけです。“皆が進む方向、ベクトルを指し示して、今回はそれで行こうではないか”、といっているわけです。平成は平成で、30年続いて、一つの役割をしました。元号と真っ逆さまの、反対のことが起きることもあって、そこに着目してしまいがちなのですが、時代が変われば、また「平らけく」ということが、経済格差になって現れるということが一方で起こるわけですよね。そういうものを呪詛するのであれば、逆に、言祝(ことほぎ)の言葉に変えて、良い方へ向かうようにと、そういう祀りをすればいいわけです。

今回であれば「和」という言葉に相反する、たとえば戦乱や騒乱が起きないようにということで、しっかりと臨時祭祀を行っていくということですね。その前の昭和は60年も続いたのですが、一代として続く場合でも、そのとき、そのときで、20年位で次の元号に変えても良かったんですね。それが日本ではできなかったのですけれども。今回は、災害が多いということばかりがいわれるので、天皇陛下が心を痛めておられたわけですが、本来は、たまたま地震などの活動期に即位されているだけなのですね。大伴家の家持らが働いていた時代の聖武天皇が、やはりそういう災害の多い時期に即位されていて、ご自身の不徳のいたすところとおっしゃっていましたから、逆に民はそういうことを天皇にいわせてはいけない、ということでお互いが想い合い、それを臣が繋いで・・・と、身分に関係なく、みんなで一緒にやっていきましょうということをしているのです。

その時代に謳われたものが詠み込まれて編纂されたものが万葉集です。ですから、防人の歌とか、名もない詠み人知らずの歌もたくさん入っていて、天皇も、あるいは、家族やその内親王たちの歌も入っています。そういう平等感が、日本の万葉集にはあるのですね。その万葉集から初めて元号が引用されたこと自体、より良い日本の未来を連想させてくれますね。「和の学び」をについてやっていこうということで、標語のように元号で標榜するわけです。今の時代というのはとてもフェイクが多いので、真実というか、真理に開かれるような時代になってほしいという、一種の予祝として、また未然法の祓いとしてはたらくものが、この「令和」の元号名であるわけです。

(4)「令」の意味
この万葉集の歌の中では、「令」の字は、めでたい、何を始めるにも良い、という意味で用いられていますね。この「令」には、「りょう」という読み方もあります。平安時代に書かれた「令義解(りょうのぎげ)」は「令」、法律を義解・解説したものですが、そうしたものもあるように「令」は「法律」の意味があります。この「令義解」の中で、五魂についても触れられていて、「神」と「五魂」を結ぶ、その”ハタラキが「霊」”で、その”言葉が「言霊」” であるというような捉え方をしています。そして、さらに五魂は、精神を結ぶわけですよね。精神も結ばれていないと、バラバラになってしまって、大変なことになってしまいます。五魂ということは、その精神を「精魂(くわしみたま)」で結ぶということを伝えているのです。日本の歴史の中で、そういう学びが必要であるということ、またそれを法律にして普遍化しようとしたということが、平安時代にあったわけです。それがこの「令義解」で、言ってみれば「和学」であって、その意味でも「和の学び」に繋がってきます。

白川学館においては神と言葉、あるいは神と事柄、真実、神と人を結ぶ「産霊(むすび)」のエネルギーであり、はたらきそのものを「霊(れい)」と呼んでいるわけですよね。生結神(いくむすひのかみ)、足結神(たるむすひのかみ)、玉詰結神(たまつめむすひのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日(かみむすひのかみ)の五産霊(いつむすび)が、そのはたらきをしています。この産霊の学びが、まさに「令」というのでしょうか。五霊として捉える「霊」というものは、そこにも繋がっているんだというような気づきをもたらすものなんですね。

(5)「和」の意味
私たちはこれらが、学びや学問、法律、法則、そしてそのまさに「法律になる」ということをとっても、主体主語の「和の法律」であり、「和の学び」になっているのだということを、ずっとお伝えしてきたわけです。ですから「倭奴国王(わのなのこくおう)」という言い方がありますが、外から、中国から見ても真面目な国というか、「和」を重んずる国であるわけです。「和」というものが、一番大事になっているわけですよね。

この書き下し文「初春令月、気淑風和」では「和らぎ」となりましたが、聖徳太子の十七条の憲法の第一条「和を以て貴しと為す」の「和」は、まさに「和らぎ」をもって貴し、ということですね。その「和らぎ」は、五魂の中でいえば「和魂(にぎみたま)」の繋がりから入っていく、ということです。この「和」の字は「禾部(のぎへん)」に口ですから、お米などの五穀が口に入って、そして身体の中で栄養となって、統合されて身になる、この身体になる、ということをも「和」といっているわけです。

身体的に満たされるということも含めて、「和」であるということですね。五階層全てにわたり「和」であるということですね。日本語では「れい」という意味の音は「繋ぐ」「繋がる」エネルギーの場のことを言いますから、それを拡大解釈すると、この「令和」の元号は「和の結び」というか、そのものが「和(にぎ)」であり、「結びの場」であり、さらにはそれをしっかり学問としましょう、法律にしましょう、というような意味になると思うんですね。現代がフェイクの時代だからこそ、日本人が誇れる真面目さというものを取り戻していこう、そしてまた発信していこう、ということで、「和学提唱」の意味を含んだ「令和」はまさに時代に合った元号ということになりますね。

世界で世論調査をすれば当然、世界で一番、真面目なのが日本人ということになるのだと思います。ほかの国では、財布を落としても戻ってこないのが当たり前ですが、日本だけは、落としたものが戻ってくるわけです。それは、DNAに刻まれているような、身についたものとしての根っからの真面目さ、親切心ですよね。日本人が純粋に学問を学ぶということができる、ということが証でもあると思うんですね。科学などの学問を純粋に受け入れられるからこそ、学んで、そして様々な成果を上げることができているわけです。それこそが、一番の科学であり、人の情報というか、感性であり、知性であり、理性であり、そうした性質を、階層的役割から理解できるのではないかということが、「和学」、そして今回の「和」ということを通じて、言えるのではないかと思います。今回、元号が選ばれることで、これらのようなことが注目され、本当の意味での和の学びが起きていくと、良い社会になるのではないでしょうか。「和」というのは、過去の元号で20回ほど使われているので、その「和」ということを、また、未然法で祓っていくということも大切だと思います。

(6)元号は「言葉による時の遷宮」
元号というものが法律で残っているのは、もう日本だけなんですね。中国も朝鮮も、元号がもう使えないわけで、日本だけがこれを保持したんですね。これも象徴的なことで、結局、他は革命や政治の変革によって、みんな無くしてしまったものが、日本には残っています。博物館学的(ゲオポリティック)な日本の姿勢の役割があるということなんです。これが非常に大きなことだと思いますね。

伊勢神宮の遷宮も20年ごとにずっと行われて伝承されていますが、元号もまた「言葉による時の遷宮」ということなんです。それを中心として国造りをし、それをまた次の世代へと受け継いでいく、ラグビーではないですけれども、とにかくパスで繋いでいくということですね。日本の神様も、パスワークですからね。大祓の中に出てくる瀬織津比売神(せおりつひめ)、速開都比売神(はやあきつひめ)、気吹戸主神(いぶきどぬし)、速佐須良比売神(はやさすらひめ)の「祓戸四柱神(はらいどのよはしら)」もそうですね。一つの神様だけではなく4つの神様で、根の国、底の国に持っていって、そこに鎮めてくださる神々ですね。そのように「ハタラキを回していく」というところに「和学」というものがあるのではないかと思うわけです。これは「和魂(にぎみたま)」がそうさせるのではないのかと。これは5つの魂のうちの開闢(かいびゃく)されるときは荒魂で、その後、和魂で発生するんですね。生んではそれをパスするような、天照大御神の和魂のハタラキがあるんですけれども。それはまさに身禊祓(みそぎはらい)も同じで、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、大禍津日神(おおまがつひのかみ)、神直日神(かんなほひのかみ)、大直日神(おおなほひのかみ)とあって、神直日神、大直日神というのは和魂なんですね。

時代、時代で役割があって、それを受け渡していくということなんですね。しっかり伝えて、やっていく中身があると思います。古事記も神々も「オートポイエーシス(自己創出)」というシステムで繋げていくということにポイントがあります。天皇家も、今度が125代目ということになりますが、ここまで繋がってきた国は、世界のどこにもないわけです。鎮魂祭によって、魂を次に受け渡していくという「魂振(たまふ)り」のことなのです。魂というのは精神のことで、大和魂とか、大和の精神を、次の天皇にお渡ししていくことで形作られているのが、日本の伝統なのです。遷宮も、建物を移すということだけでなく、精神も受け渡しています。それを元号というのは言葉でやるわけです。

元号は次の時代に対する祝福なんですね。そして元号そのものも祝福され、次にどんどん受け渡されていく。そういうふうに捉えたら良いのではないのかなと思います。美しいですね。気持ちを新たにするタイミングでもありますから、こうしたことを知って、新しい年号を迎えられるというのはとても嬉しいことですね。そのような方向性を認識した上で、予祝として、また未然法の祓いとして、この元号を見据え、統合していけば、より良い国が創れるのではないかということだと思います。そうすると、よい社会になるのではないのかと・・・。

ありがとうございました。

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