令和五年「神無月 月次祭」が執り行われる

令和五年十月十五日に、「白川学館 神無月 月次祭」が執り行われました。今月の月次祭は、オンラインとリアルの同時開催にて、皆さまとご一緒に執り行わさせていただきました。

式次第におきまして、七澤久子代表理事よりお話がございました。月次祭は、白川のおみちが、高濱浩先生により、甲府の地に開かれましてからの最初の日をもって、そして今日に至るまで、毎月、月次祭が執り行われ、続けられていますことを、当時を振り返られながら、皆さまにお話として共有していただきました。

今月の月次祭におきまして、「はふりめく」の第三巻が発行されましたことをお伝えされるなかで、七澤賢治前代表の思いが込められた「はふりめく」をもって、白川学館の公の学びを、さらに深めていくことにつながるお話が共有されました。

そして、無になって、素直な気持ちをもって、手を合わすことの大事さをお話されるなか、瑞気集門(ずいきしゅうもん)という言葉が披露されました。瑞気集門という言葉を通じまして、きちんと、凛として、静謐な空間において、素直な気持ちを持って、柱を立て、自らの軸を立てていくということ、そして、自然の世界におきましても、草木や大地の土が、それぞれの自然の働きを成していくなか、満たされた働きとして、めでたいことがますます始まり、そして、めでたい人々が集まり、そして、甲府の地に伝承されて来ている、白川のおみちの学びを、皆さまのお一人おひとりが伝え人となられて、これからもどこまでも、共に繋げていくことをお話いただきました。

白川学館の横山さんからお話がございました。真っ直ぐに立つということのあり方をお話いただきました。人という漢字は、お互いに支えあっている、という意味が通常、解釈の一つとしてあるなかで、人という漢字は、横からの姿として、人の立ち方を表わすことでもあり、本来は、各自が独立して立っている姿を表わしていることをお話されました。

そして、本来は、真っ直ぐに立てていることが、過去や未来の記憶に引っ張られることで、真っ直ぐに立っていることが崩れてしまうことから、自分の記憶、先祖の記憶、人類の記憶、生命の記憶といった、様々な記憶との結びにより、がんじがらめになって、鬱滞している結びの部分に気づき、切るということ、そして、切ることによって祓いがなされ、中今に立ち戻り、神々のおはたらきとの結びが起きることで、言霊が発動することのお話を共有していただきました。

白川学館の山口さんからお話がございました。食べることと、情報を読むということは、似ているのではないかということのお話をテーマとして共有していただきました。食べることにおきましては、食物を体内に取り入れることで、生きる力となって置き換わり、必要なものと、そうでないものを見極める機能があることから、食べ物の摂取のあり方と同じく、情報を読むことにおいても、本物の情報であるのかどうか、あるいは、必要な情報と、そうではない情報を見極める機能が、本来、成されるのではないのかということのお話がございました。

今日の時代におきましては、複雑な社会のあり方を迎えているなかで、様々な情報と向き合うなかで、しっかりと網羅・分類し、適切に判断するためには、日々の祓い・鎮魂・言霊の学びのあり方が大事となってくることのお話が共有されました。

七澤賢治前代表のお言葉であります、「人智ではなく、神智をもって生きていく」というお話を共有していただくなかで、今日の時代において、神々のおはたらきと繋がる、神智の自覚が大事であることのお話を共有していただきました。

当方からもお話をさせていただきました。今月は神無月であることから、神無月という古くからの言葉の由来と、出雲の国に、全国から神々がお集まりされるなかで、公の平安清明、国の繁栄、人心の安寧のために、会議がもたらされたことの神話においてのお話を共有させていただきました。

古語の言葉の世界には、神議り(かみはかり)という言葉もあるなかで、古事記や日本書紀には伝承がないところを、大祓の祝詞の世界におきましては、本義が確実に伝承されているということ、そして、日々の祓いをもって、祓詞におきましての神話を神話知とする学びから、今日の時代にお役立てさせていただくための、公の貢献に繋がる学びの場が開かれていることを、共有させていただきました。

「令和五年 白川学館 神無月 月次祭」におきまして、誠にありがとうございました。

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